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『世界中年会議』四元康祐

4783713243世界中年会議
四元 康祐
思潮社
Amazon

詩はやっぱり「売れない」のだろうか。

そんなに古い本でもないのに絶版なんですね。
とか言う私も。知らなかったですものね、著者のこと。
いえ。忘れていたんです。

時々、当ブログの過去記事をパラパラ読み返すのですが。
『通勤電車で読む詩集』小池昌代 編の中にこんな記述を発見。

四元康祐という人の、「言語ジャック 1新幹線・車内案内」
これは、私としては、超・掘り出し物。何だ!この面白さは。
この人の詩は、もっと読んでみたい。

もっと読みたいといいながら。
その名前すら忘れて7年が経過している。
まぁ、よくある話です。

今度読む、近々読む、また読みたい、きっと読む。
私は「読む読む詐欺」だと言われても仕方ない。

読む気はあるのだが、読もうと思うものがあり過ぎる。
あるいは。安易にあれもこれも読む気にだけなって。
実際にはそこまで読みたくもないのかもしれない。

「読もう」と思うのは。
「面白そう」だからですね。
しかし、「面白そう」なものは結構溢れている。

「そう」なものが「そう」である保証はない。

「面白そう」でも「面白くない」
「感動しそう」でも「感動しない」
「役に立ちそう」でも「役に立たない」

ざらに、あることで。なので。
実は期待値が潜在的に低いのだと思う。

一読して「信者になる」くらいの。
「わーなんだこれ、凄いぞ凄いぞ凄過ぎるぞ!」くらいの。
爆発的な興奮とかがない限り、「今度読もう」の「今度」は遠い。

ちゃっかり。偶然に機会が訪れることもあるけれど。
大半が忘却の彼方へ走り去っていく。
「今度」はどんどん遠くなり、新たな「今度」が生まれる。

あ。たぶん。来年になると思いますけど。
自分の過去記事から「読む」と公言した本をピックアップして。
篩にかけたうえで、ほんとに読むという企画を計画しています。

そう。「読む読む詐欺」の汚名(誰も言ってないけど)をはらすのだ。
ていうより。かつての自分の心を動かしたものに出会ってみたい。

あ。四元康祐さん。

検索したら図書館にある本があまりにも少なかった。三冊!
なので。読みたい詩集とか選べませんでした。
Amazonのレビューも書き込みゼロ。

なんかわからんけど。この本にした。タイトルが面白いし。

で。読んで言えること。
この人は、もっと売れるべき!

詩に多少興味がある私も知らないなんて。
この国は現代詩人と言えば谷川俊太郎しかいないのか。

言い過ぎ。谷川さん、私、好きですよ。
工藤直子さんもいる。吉野弘さんも。長田弘さんも。
もっといるいる(でも割愛、ごめんなさい)。

でも、やっぱり。一般的には認知度は低いよね。
詩って。普通の人とは無縁という雰囲気がある。

小説も読まないのに、詩なんて読むわけもないか。
えらそうに言う私も、たまにしか読まない。

別なのかな。読むときに使う脳の筋肉が。
だからこそ、たまにストレッチに読むといいんだよ。

正直。私も頻繁には読めないんです。
でも。読むと。「ほぐされる」感じがする。
「癒される」ではないんだな。

考えるよりも。感じることに比重がかかる。詩を読むのは。
いや。感じてから、それについて考える、かな。
ううん。考えるの面倒だったら、考えなくてもいいんだよ。

四元康祐の詩は。考えてもムダっぽい。
感じるというのも。ストレートにドーン!じゃない。
ヒネてるかっていうと。とても素な印象もある。

やっぱり。「面白い」んです。
わかりやすく言えば短編小説を読んでるみたい。
ちょっと「奇妙な話」系の。

詩の中の出来事は「突飛」ではある。
大人のお伽噺というか。シュールで。

不思議と。受ける印象は澄んでいて。
ドロドロ、ギタギタはなくて、きれい。

私。「新感覚」なもの、苦手なんですよ。
時々、行き過ぎた憎悪を抱くくらいに。
でも、四元さんの詩は懐かしいような。
ちゃんと、わかるよ。よく、わかる。

シンプルで美しい言葉遣いだと思います。
格好つけてないけど、粗暴じゃない。

そして、
大切なこと。
「言い過ぎてない」。

わかりやすく美しい詩ではない。
形容詞で浮かぶのは「面白い」がまず最初。
いいなぁと思うのはその面白さが静かなところ。

浮かれ騒ぐ面白さではなくて。
魂の底の方に響いてくる奥深い重低音的な面白さ。
面白いって実はちょっと・・・だいぶ淋しさに近いんだな。

題材や内容からすると妙なくらいに心洗われる詩。

(2018.9.13)
欧米暮らしが長くて。今はドイツ在住のビジネスマンという著者。
そうか、詩が売れなくても困らないんだな。
というより。私が思ってるよりは認知されている詩人さんのはず。
だけど。詩集がベストセラーになってもいいくらい素敵なのに。
ていうか。頭のいい人なんだなー。なんか悔しい。好きだ。

『俳句の作りよう』  高浜虚子

4044094055
角川ソフィア文庫
Amazon

創作の極意……俳句に限らず。

読んで時間が立ち過ぎてましてね。
感想を書こうとしたら何も思い出せず。
何しろ、半年経ってますから。

ええ。読んですぐ書けばいいのに。後回しにする性格で。
年々、その傾向が強くなっていって(老化?)……
なんと感想が書けてない本が80冊を超えてしまいました。

去年、死ぬ気で頑張って。
50冊溜まったのをやっつけ(!)たのですが。
それがかえって、ヘンな自信になってしまったようです。
50冊分の感想くらい、余裕、余裕、と。

え。いや。違うでしょ。
毎日毎日ノルマみたいに3冊分の感想を書いてしんどかったし。
だいたい、それじゃあ良い記事も書けるわけもなくて。
自己嫌悪に陥ったんじゃないの……忘れたの?

忘れたんです。ハイ。
なにしろ、自分が「頑張れた」ところだけが強く記憶に残り。
「しんどかった」「情けなかった」のところは都合よく消える。

同じようなことは私の日常生活上に散見されます。
いちばんわかりやすい例で言いますと。
私の家から駅まで徒歩8分。
これは公式の時間ですね。

でも実際は。
マンション住まいなので、マンションの玄関までの時間もあるし。
駅についたらすぐ電車に乗れるわけでもない。

結構な階段を昇って改札へたどり着き。
それから、改札を過ぎてホームへまた階段を降りる。
都合、10分はかかると見るのが正確。

さいわい。私は歩くのが速い(足は短いけど!)。
いざとなったら、少し走ることもできます。
となれば、8分でも足りる。

とはいえ。うっかりだか、ぽっかりだか。
間に合わない!という時間に出発することもありますね。
この場合は、そこそこ真剣に走ります。

で、ですね。気がつくわけです。6分あれば間に合う、と。
そうすると。8分で焦らなくなる。
6分あれば大丈夫と思っているから。
余裕を持ち過ぎて。あと5分しかない!という日がやってくる。

諦めますか? いえ。走りますね。
これが。間に合っちゃったりするんです。
死ぬんじゃないかってくらいのしんどさですが。

だいたい、数分早く家を出るだけで。
こんな猛ダッシュの必要はなくなるわけですよ。

しかしですね。私のおバカな脳はこう記憶する。
「いざとなれば5分あれば間に合う」と。
この記憶は消せません。「できた」前例として燦然と輝く。

バカだ、馬鹿だ、アホだ、阿呆過ぎる!

まぁ、言って見れば。すべてがこの調子です。
猛烈に頑張って何とか窮地を脱すると。
二度とこんな苦労はしたくない……と反省するのでなく。

「私にとってこれくらいは窮地ではない」
だから、まだまだ大丈夫、となってしまうのですね。

なんてめでたい性格なのでしょう。アホや。あほすぎる。

で。冒頭へ戻りまして。
50冊分の感想では焦れなくなってしまった私は。
気付くと80冊分も溜めていたわけです。

いや。これはね。さすがにカウントした時、青ざめました。
読んだ本すべての感想を書くというブログ方針を。
いよいよ、捨て去る日が来たと覚悟しました。

80冊はね。書けますよ(内容の精度はともかく)。
問題は書く間も読むことはやめないわけですから。
読むペースと書くペースの差を考えると。
これが100冊になることもあり得るということです。

ぞぞぞぞぞ(鳥肌)。

もっと怖いのは。
80冊の差を埋められたという実績を作り。
次なる段階(100冊?150冊?)へ進むことかもしれない。

もういやだ。これを最後にしたい。
読んだらすぐ、感想を書く人に生まれかわる!(無理でしょう)

あ。本の内容を思い出せないからといって。
思い出せない理由を延々と語ることで誤摩化そうとしてる!

それはナシでしょう!
いや、アリだと思うけど、一回しかできないでしょう!

ええ。さすがにね。今回だけにします。
(ひとことボソっと愚痴るくらいはあるかもしれませんが)

で。こうして長々書く真意はですね。
「それでも私は絶対に方針を曲げません」という決意表明をして。
自分をこれ以上逃げないように追い込むという……

これまた、お得意の作戦ですね。
どうして、こんなに自分を虐めたいんだろうか私。

まぁ。頑張ります。何のためだかよくわからないけど。
思い込んだらやり通す根性だけはあるので頑張ります。

おかげで。近頃、やたらと記事が長いのです。
昔から。余裕がない状態で文章を書くとめちゃめちゃ長くなる。

信じてもらえないかも知れませんが。
こんなおバカな内容であろうとも推敲はしております。
長い方が楽に書けるとか言うのでもありません。

追い詰められると長くしか書けなくなってくるというだけです。
単純に言えば、思考回路が「言い訳モード」になるというか。

やたらとぐだぐだぐだ説明したがったり、過去を振り返ったり、
答えの出ない問いを連発してみたり、悩んでみたり。
脱線癖は元からありますが。それが制御不能になるのです。

でも。開き直ります。開き直るのは得意なので。
読者さま方には誠に申し訳ありませんが。
開き直りパワー全開で。都合良く解釈します。
こういうのもたまには面白いと思う方もいるだろうと。

ほんと、ごめんなさい。
まぁ。毎日はやりませんから(たぶん)。
さすがに自己嫌悪でブログを辞めたくなりそうですから。

昔からの私をご存知な方は。
私の「ワタシワタシ」主義ぶりはご承知ですよね。

ん?「ワタシワタシ主義」ってナンだ?
いや。「オレオレ詐欺」ならぬ「オレオレ主義」ってあるかなって。
もしくは「オレオレ人格」。
語呂からいうと、「オレオレ主義」がぴったり来るんですが。

残念ながら「オレ」っぽい人格でもないんだな、私。
それでも。自覚はちゃんとあるんですよ。
一見そう見えずとも自己主張が無駄に強いという自分の性格。

自信家と真逆ながらに。「私(ワタシ)」力が強い。
自我っていえば。もう少しきれいに響くんだけど。
「オレオレ」とか「ワタシワタシ」っぽい軽薄さがあるのね。

あ。もう。これ以上、自分を追い込むのはやめよう。

で。バタバタ探したら。この本。本棚にありました。
とりあえず。付箋を貼ってあったところを引用します。
これだけ読んでもらっても、内容の雰囲気伝わると思うので。

 新しいということは古いことを十分に研究した上で申すべきことであります。「新」ということは相対のことであります。十分に古いことを研究せねば何が新しいのだか古いのだか判ろうはずがありません。(中略)新しいということは古いものを熟知した上で初めて意味ある言葉となるのであります。

ある建築家の話に、建築が一の様式から他の様式に移るにはおよそ百年を要するということであります。これは面白いことだと思います。すなわち人間のすべての仕事、いわば人間それ自身というものが決して因縁を切り離してものをすることはできないということを十分に考える必要があると思います

文芸のうちで比較的新しい分量を要求している小説のごときものであっても、その実決してそうむやみに新しいものを創造することはできないことであって、たとえ最近の例のようにフランス、ロシアあたりの文芸を急速に輸入してきて、一時は従来の日本人には思いもよらないような新しいものを見せることができたにしても、それは歳月を経るに従ってかえってその「新」という点は退歩してその代わりに従来の日本趣味ともいうべきものが逆襲してきて、大局によりこれをみれば、結局ある徐歩を試みたというに過ぎないことになるのであります。

 近代の俳壇でも正岡子規という人は決して人間を軽蔑しなかった人である。人間社会をくだらないものとして頭から見下ろしておったような人ではなかった。もしあの人にして健康が許すならば、社会の人として働く考えすらも持っておった人であった。かくの如く人生に趣味をもち、尊敬を払っておった人が、病いのためまた自己の文学のために人生を離れた地位に立たねばならなかったわけであるが、その苦には軽薄な跡が少しもみえない。シットリと人を感じさせる点にあっては蕪村よりも子規の方が上であると自分は信ずる。その点においては元禄の芭蕉に次ぐものといってさしつかえないと思う。
 そうして子規以外にも今日の俳人中にはやはり人生を愚にせず、人生に対して相当の熱意をもっておりながら、その半面に超越した世界に遊ぶごとき考えで俳句を作っている人もすくなくない。これらの人の句はどことなく落ち着きがあって、発句が下手にかかわらずなお相当の尊厳を払うにたると思う。

例えば芭蕉の句になるとつまらぬ句も随分沢山ある。しかしながらそのつまらぬというのは表面がつまらぬのであって、その句を通して背後には一種の後光のようなものがある。あたかも仏様の後にある光背のごときものがそこにある。上っ面は平凡な句であるにもかかわらず、何遍も味わってみるとシットリと底の方から味が滲み出してくるごとく感じられるのは、すなわちこの仏様の光背に当たるところで、余はこれを背景のある俳句と呼びたいと思う。この背景のある俳句はいくらたってもその味は失せない。けれども上っ面がチカチカ光っていて、一読して面白いと思われるような句は、長く味わっている中に飽きがくる。

月並の句とこの背景のある句とが往々にして誤られやすきにかかわらず、その間には非常なる相違がなければならぬ。月並の句になると足袋屋の隠居さんとか、床屋の亭主とかいうものが、極めて卑近な考えで人生なり景色なりをみて、その極めて卑近な人生観を土台にして、その人生観を句の上に暴露して句を作る。かくの如きは決して背景ある句というべからざるのみならず、最下等の句といってよいことになる。けれども芭蕉などの句になると、深く考え、深く思ったものが芭蕉の頭に存在していて、芭蕉が発句を作る場合にはその主観というものはたやすく句の上に出てこない。ただ単純なる景色を叙した句であり、単純な人生を詠じた句であってもその考えは一度その頭の奥深くに潜んでいる主観を通じてきたものであることだけが大なる特色であって、そこに独特の光もあり、独特の響きもあるのである。また芭蕉の主観は床屋の親爺などの習慣と違って哲人の主観といってもよいほどのものであるからして、誰がその句を読んでみても、ありふれた小理屈を言ったものとは思うことができない。

芭蕉と子規をベタ褒めですか? いや、そうじゃない。
俳句に限らない創作の極意が書かれていると思います。

まさに。「こうありたい」と思う創作の姿勢と言いますか。
「背景がある」のところはすごく納得する。
「光背」という例えは思いつかなかったな。面白い。

「シットリ」という語が虚子サンのお気に入りらしく。
何度か登場して。ちょっと独特な表現だと感じましたが。
うん。なるほど。それも伝わってくる。わかる。

わかるわかるわかるわかるよ。
作品を味わうというところでは虚子先生に大賛成。

その辺は見分けられると自負しているんだ、実は。
「上っ面がチカチカ光ってる」ものなんかに騙されやしない、と。

一転。自分が創る側に立って読むと。
痛い痛い痛い痛い……やめてやめてやめて……

(蛇足ですが、俳句を詠むわけではありません)

「ありたい」気持ちはちゃんとある。
「あれる」自信は全くもってない。

ていうか「あろう」とすれば「あれる」もの?

(2018.4.2)
俳句、実はかなり好き。
お気に入りの俳句を写したノートがある。
数えてみたら270句でした。虚子も結構入ってます。
せっかくなので一つ。

「うすく澄む水美しや泥の上」


『夜のミッキー・マウス』  谷川俊太郎

4101266220
新潮文庫
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「永瀬清子さんのちゃぶだい」と、
「闇の豊かさ」が好き。

まぁ、でも。
なんか、この詩集はまとまりがないな。

ていうか。極めて現代的な感じ。
さらさらっと読めてしまって。
だから掴めていない・・・

だけど。

表題作でもある「夜のミッキーマウス」のなかの
「ミッキーマウスが真実の鼠に帰る日」という一節に。
私たち人間もミッキーマウス化してるんだなと思う。

「陽気なほほえみから逃れて」とあるけれど。
私たちも。いつかは逃れるだろうか。

(2016.5.29)

『詞華断章』  竹西寛子

4006021712
岩波現代文庫
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竹西さんの文章が美しいという評判で読んだのだけれど。どうもピンと来なかった。生真面目というのか、固いというのか、なんだろう。もう少し、緩みが欲しいなぁと。

ただ、私の日本語読解力が弱いのかもしれないなと思ったり・・・

うん。きれいな日本語と皆が口を揃えて言うからそうなのかもしれないのだけれど。やはり私にはあんまり良さがわからなかった。なぜか、心に響いてこなかった。

単純に。好みの問題なのかもしれない。そういう好き嫌いというものに、何か潜んでいる「私」の価値観、「私」の欠点、もしかしたら「私」の強み、があるのだろうという気もする。

それとも。ただ読んだタイミングが悪かった可能性というのも・・・捨て切れない。波長を合わせることが出来なかっただけ?

この疑問を検証するために。また、この方の著作に手を伸ばすことになりそうだ。

以下の文章は、好きです。でも内容はすごく共感するのだけれど、言葉は堅く感じるな・・・

私は、歌でも句でも小説でも、作品を濁らせないのを創作の大切な条件だと思っている。それは、清澄な素材を扱いさえすればいいということではない。たとえ汚濁の素材を扱っても、作品は澄んで仕上がるのを望ましく思っているということである。

 欲望の気ままな発散は、自由とは区別されるのが望ましい。
 型が生きるのは、型をばねにできるほどの内なる横溢がある時に限られよう。
 その内なる横溢が、表現のばねに自ら求めた型ならば、そこには豊かな自由が約束されているはずである。

あと。紹介された句のなかで好きなものも書き写しておきます。

われをつれて我影帰る月夜かな   山口素堂

淋しさの底ぬけて降るみぞれかな  芭蕉


(2016.3.3)

『瑞穂の国うた』  大岡 信

4101273316
新潮文庫
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『風姿花伝』には、「花」ということばが百四十回ほど使われているそうです。(中略)これはどういうことかというと、能を演ずるうえでの最も好ましいやり方や心構えを「花がある」というかたちであらわしているのです。その意味では花ということばは世阿弥のような天才的な人にとっても、生きる上での美学の中心にあったと言っていいわけです。そのほかに彼が大事にしたのは「新しさ」とか「珍しさ」などです。それらの意味を含みながら、いちばん本質的な守るべき価値を一言でいうと、それが「花」だったわけです。
 花というものにはパッと咲くときとパッと散るときとの両方があって、その両方は芭蕉風に言えば「不易」と「流行」の両面なのですが、それを一語で表しているところが花ということばが愛された理由だと思います。

現実には悲惨なことがあり、さまざまな災害が続いたはずですのに、詩歌にはそれがまったく反映されていないのです。日本の詩歌人ははじめから穏やかな麗しい日ざしを浴びていたわけではないにもかかわらず、彼らがつくり出すフィクションの世界では本当に円かな月が照っているような時代がずっと続いたように見えるのです。描かれたのが、大きなフィクション、すなわち現実から超越しているがゆえに、いつまでも現実を超えて長続きする体系になっているという、美観というものの一種の逆説がそこにあります。実際はひどい状態がたくさんあったのに、あとになって考えてみると、すべてそれは美意識の支配する麗しい世界の中に吸収されている——詩歌というものの救いは、そこにあるのかもしれません。

 時雨にしても木枯らしにしても秋から冬への時の移行とともにある現象ですから、季節は変動してもおかしくはないのに、それを木枯らしは冬の季語だ、あるいは時雨は冬だ、と決めるのは、だれかが作った歌や俳句が人々の心をとらえ、それが大勢の人に愛されることによって決まっていくという現象があるからです。それは、季節感というものが、ときどきは人間の理性によって決められてしまうこともあるということを意味しています。

 時間の経過を書くのは短歌であって、俳句は時間が経過したあとの一瞬をとらえるという違いが、やはりあるような気がします。このへんが短歌と俳句の違いの一つではないでしょうか。

 時間は流れるというけれど、時間はどこにあるわけでもなく、時間はそれぞれの人の心のなかにあるのです。しかもそれは、それぞれの人の衰えていく実感とともにあるわけで、盛んになっていく実感なんた、ほとんどの人にないでしょう。すべての人がおめでたく歳をとればとるほど、生命力のうえでいえば、どんどん衰えていくわけですから、そういうことをはっきり知るためにも、「時を刻む」という意識があったほうが、ないよりはいいのではないかな。
 (中略)だからといって、ただ単に直線的に素直に衰えていくのは実にくだらないと思う。そうではなくて、人間には生命ゆえの黄金時代とは別に、人生の「黄金時間」というものが流れていると思うのです。

「句歌で味わう十二か月 」と副題にあります。

大岡氏は「子規の全句(二万二千句あまり)を通読してみた」と、
さらっと言えちゃうくらいの人。

俳句はもともと好きですが、この本を読むともっと好きになる。
後半、偉大な俳人たちについた書いた章も読み応えがあります。

 彼の晩年は、実際の、生きている姿としたは悲惨です。ほとんど泣き叫んでいる晩年ですが、彼の文章を見ると、命というものが充溢しているのです。一方では生命の悲惨というものがあって、その悲惨の極致にいるわけですが、同時に生命の充溢の極致にもいて、悲惨と充溢というものがぴったりくっついているというところが、正岡子規という人のすばらしい、珍しいくらいの生き方ではないかという気がするのです。

 虚子の軌跡をたどってみると、ぴかぴかしたような新しさに対するたいへん厳しい拒否というものがあります。それは一面では古くさいものに見えます。しかし、いろいろな波がどんどん起こっては消え、消えては起こりして、最後に波が静かにおさまってみると、虚子の言ったことが重要な方針として、現代俳句の前に元通り、横たわっている、———そのことの意味は大きいと思います。それは五七五という短いことばのなかですべてを言わなければならないという俳句の宿命です。それをよくよく考えるということと、虚子の生き方を考えるということは、二つにして一つのものではないかと思うのです。


ああ。日本語って、やっぱり、いいな。
・・・そんな気持ちにさせてくれる本です。

(2016.1.10)
俳句を詠むというのは秘かな私の憧れの一つだったりします。
  

プロフィール

Author:彩月氷香

とにかく本が好き
読書感想がメインですが
時々、写真や雑記も。

*初めましてのご挨拶
*ブログタイトルの由来

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