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『消えた少年』 東 直己

 ハヤカワ文庫JA
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うーん。好きだったはずなのに。

ススキノ探偵シリーズも読んでるはず・・・と。
自分のウン十年分の読書データを検索してみたら。
なんと、この本、すでに読んでました!

1997年って。22年前ですか。あー。
そりゃ、忘れてても無理はない。

(えっ。そうか???)

記録漏れがなければ、著書の本で他に読んでいるのは。
「悲鳴」と「スタンレー」、いずれも2006年のこと。

正直、内容は一切、思い出せない。

ただ、面白かった、すごく良かった、好きだ、と。
肯定的な記憶しか「東 直己」という作家作品にはなくて。
いいのになぁ、あまり評価されてないなぁと感じていました。

近年、立て続けに映画化されましたよね。

しかしだな。イマイチ、だったんです。今読むと。
時代が古い気がして。っていうか実際古いんですね。
古さが味わいにもならない古さの微妙なむず痒さがある。

ひとことで言いますと。
なんか、恥ずかしいというか、白けるというか。
いや。単純に趣味に合わないというか。

ハードボイルドって。すごーく好きだったんです。
なのに。今は。「クサっ。格好つけすぎ」と冷める。

というよりも。
格好つけつつ、自虐的笑いに持っていく塩梅に共感しない。
いや。そういうのも嫌いじゃないんだけどさ・・・

笑いを取ろうとしている台詞や独白がピンとこない。
笑いのセンスが自分に合わない。

ヒロイン?も美人である以外に何の取り柄があるのだろう。
この女性に全く魅力を感じないのには困った。
勘ぐりすぎて、彼女が影の悪役かと思ってしまったくらい。

タイトルになっている「少年」に。
もしかすると若かった頃の私は共感できたのかもしれない。
映画好きで、正義感が強くて、群れない子。

あと。実感したのは。
日本のハードボイルドにはヤクザが欠かせないんだなってこと。

いいも悪いもない。
好きな人は、きっと好き。かつての私がそうだったように。
時が流れれば、人の嗜好も少しは変わる。

「ずっと好き」という作品、作家ではなかったということ。

(2019. 6.1読了)
古い記憶からの感想で、「傑作」や「お気に入り」と語るのは。
とてもとても危険だということが今回、わかりました。
あくまでも読んだ頃の私にとっての想いなのであって。
それが現在までも続いているとは限らないのは当然のこと。
若さには特有の「寛容」と「峻烈」があるような気がします。

『十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。―狐狸庵先生の心に届く手紙』遠藤周作

4759309497
海竜社
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古本屋で100円だったので買いました。

未発表作なのですね。
労働闘争のドタバタ期に編集者が紛失して。
著者の没後に発見された原稿。

手紙の書き方の本です。
あまり。参考にはなりません。

相手を思いやって手紙を書こうよ、ってことが。
著者流のユーモアで述べられる。

以下、付箋を貼った箇所の引用。

 一概に「読む人の身になって」と言ってもそれはその都度、書き方がちがってくるのです。しかし手紙の書き方はと問われたならば
 「読む人の身になって」
 この一言につきるのである
 手紙を書くとき––––一分間だけペンを持って眼をつぶってください。これ送る相手の人の今の顔形を心に思い浮かべてください。
 病気で長く寝ている人なら……
 まずほら、ベッドが浮かびます。ベッドに寝ている彼の蒼白い顔も浮かびます。すると、彼がどんな気持ちか、どんな話を聞きたがっているか、どんな話や言葉は聞きたがらないか、段々、わかってきたでしょう。彼は退屈しています。夜も病気の不安でねられないのです。そんな彼には慰めにみちた言葉と、思わず心を朗らかにするようなユーモアが必要だ。
 よし、この二つを手紙の中で書いてやろう。これで「何を書くか」はきまらなくても「どう書くか」は浮かんできましょう。これだけ浮かんだだけで手紙の五割はもうできたようなものです。

あとは。
文章が上手くなるコツというか。
著者自身が八年間続けたトレーニングも載っています。

何でも。著者自身、
作家デビューしたものの、文章が下手と悩んだそうで。
朝から晩まで、このゲームをやって訓練したそうです。

別に難しいことではありません。
目に入るものを自分の言葉で文章にするだけ。

とは言え、沈む太陽が目に入ったとしますね。
これを「燃える火の玉のように」と表現してはダメ。
オリジナルな形容を見つけなさいということ。

ツルピカの爺さんの頭を「薬缶のように光る」もバツ。
「宝石のように鏤められた星」もナシ。

つまり。
1 普通、誰にも使われている慣用句は使用せず
2 しかもその名詞にピタリとくるような言葉を
探してみましょうということ。

えー。難しいですね。
私はこれは不得意かもしれません。

敢えて、形容せず「太陽は太陽で済ませちゃえ」派です。
禿げた頭は禿げた頭で、もういいじゃん。
うーん。そういうもんでもないか。

ピタリと来てしかも斬新、な形容に出会うと楽しいものね。

(2018.6.10)
件のゲームは作家にならない人には必要ないわけですが。
ヒマつぶしにいいし、これを続けると本の読み方も変るよ、と。
あ。暇つぶし……今、私が必要としていることだった。
でも目に入るのは他人の顔ばかりなんですが。
人の顔の形容って難問ですよね。
このゲームを試みた、ある日の通勤時。
若者が履いたド派手なコンバースが目に入り。
あれは何色か?としばし考え。
「カエルのような緑」
「安物の人工芝のような緑」
「12色のクレヨンの箱に入ってる緑」
などなど、頭をひねっておりました。
(カエルのような緑って・・・おいおい)
ま。やっぱり。
「派手な緑のコンバース」でいいような気がする。

『アキラとあきら』池井戸潤

4198942307
徳間文庫
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出来過ぎだけど、ま、いっか。

池井戸潤は、ふつうに面白いですよね。
安定感、安心感あり。

私としては主人公の二人の男の子よりも。
ダメダメな親族のオジさんたちが気になった。

あ・・・いるいる、こういう人。
わかるわかる、こんな経営者が会社を潰すんだ。

あるある過ぎて、笑えない。
きっと。たくさん。こういう会社があっただろうな。

無能なくせに自信家、妙に楽観的。
失敗は自分のせいでなく、他人のせい。

はぁ・・・。

それに対して。主役二人は出来過ぎだよね。
こんなに有能・優秀な人間に生まれたかった。

(2017.9.11)

『私と悪魔の100の問答』上遠野 浩平

4062165481
講談社
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新しいような古いような、懐かしいような・・・

あのね。結構、好きですよ。
まず、面白かった。

ゲームとか、マンガの世界のノリだけど。
この人、きっとSFとか本格ミステリとか相当読んでるよね。

ラノベ(ライトノベル)に分類されるのかされないのか。
まぁ・・・でも、明らかに「ラノベ臭」はする。

で。懐かしいんですよね。なんだろうな、この懐かしさ。
気になったので作者のことを調べてみた。

あ。やっぱり。この世代なんだねー。(結構トシだねー)
氷室冴子の技法を使ってる、と本人も認めていて。
それも、何となく、わかる。うん。わかるよ。

これを言うと歳がバレますが。
氷室冴子とか新井素子の全盛期を知ってる世代ですから。
ラノベって言葉も、この頃あったんだっけ?

わからないけど、コバルト文庫は読んでましたね。
藤本ひとみとか、久美沙織とかも。

いや。えっと。そういう路線というわけではないです。
だけど、何となく、通じる気配はあるわけで。

それは。以外と「苦い」ってことなのかな。
少女向けと思って甘くみてはあかんよ、的な。

あと。いわゆる「ラノベっぽさ」というのは。
やはり独特な「勢い」があるっていうところなのかな。
私ね。そういうのは実は嫌いじゃないんです。

今でも。ちょっと氷室冴子は読み返してみたいと思う。
私はね。ジャパネスクシリーズじゃなくて。
「なぎさボーイ」と「多恵子ガール」が好きでした。
(もちろん、「北里マドンナ」も)

などなどの脱線はさておき。

ほら。悪魔ですよ。
ええ。私、悪魔って好きなんですよね、たぶん。

まぁ。だから。
うっかり、ブックオフの100円棚で見かけて買った本なわけで。
そういう、なんとなく買っちゃった本としては当たりでした。

・・・て。感想になってない。

(2017.7.2)
他にも読んでもいいかも?とは思える作風なのです。
文章も下手じゃない(ここ、大事)。
だけど、著者の作品ラインナップを見てメゲました。
ま、この本が最初で最後かな。
「マンガは読まない」と私が決めているのは。
単純に「時間がない」からで。
同じく「ラノベも読まない」というのも。
やっぱり、時間がないからです。
うん。ラノベはバカにはしてません。マンガも。
どちらも。そのジャンルだからこその良さはあるし。
そのジャンルの枠を超えてる作家さんもいなくはない。
でもね。私の乱読にも最低限のルールは必要なので。

『文人悪食』嵐山光三郎

4101419051
新潮文庫

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面白い。
作家というものは。
何と業の深い生き物だろう。

食に限らず。
「生きる」ということに貪欲で。
その「食らう」エネルギーに圧倒される。

もっとも、これは嵐山氏の目線ゆえもあるのだろう。
悪どい面がクローズアップされ気味なきらいはある。

それでも。
流布されている作家の印象が大幅に美化されていることも事実。

嵐山氏の筆致が、人物を語るにしても妙に「美味しそう」で。
質感や旨味というものが滴るような描写が愉しい。

たとえば、有島武雄はこのように描かれる。
財に恵まれ、才に恵まれ、容貌に恵まれ、そのうえ偉ぶらない自省の人であり、現在でも、これほど男の条件が揃っている人はちょっと見あたらない。まったくの話、西洋葡萄がよく似あう人物なのである。葡萄色の深い憂愁をたたえ、全身に鮮紅色の液が流れ、視線は透明でとろりと甘い。


本当なのかしら?と疑ってしまう面白い逸話としては。
アメリカでは一番親しまれている俳人は芭蕉でなく山頭火であり、
なかでも「まっすぐな道でさみしい」が好まれ、
「This straight road,full of Loneliness.」
と訳された句を暗唱しているという・・・へぇぇ。

その山頭火はこんなことを言っていたことがあるそうだ。
「自分は与えられる側ではあるけれども、与える先方の者よりも上だという意識がなければならない。さもなくば、本当の意味で『貰う』という事は出来ないものだ。自分が上だと信じていてこそ、初めて経の声もろうろうと出てくるのだ」

著者はそんな山頭火をこう評する。
句がなければただのゴロツキである。日々の生活がすべて句に集約されていくわけだから、句を成立させるためにゴロツキになった。これは放浪者のすべてがそうであり、放浪者は自分勝手である。わがままである。わがままの果ての自我を見定めて、書くから、人々は眩惑され、畏怖し、尊敬する。


志賀直哉に関しては、こんな感じ。
 直哉の小説世界は、日常の嫌悪感に始まって対立と苦悩を生み、解決にいたる。薄気味の悪いガマを照り焼きにして食べたところ、じつはうまくて活力が出た、という話と似ている。(中略)料理を自ら行うものは、食欲への狂気をはらみつつも自省と調和が求められる。なぜならば料理は現実に食うものであるからだ。耽美派谷崎は、食への好奇心と猟奇性においては直哉を凌駕するが、庖丁を持たせれば志賀直哉の方が達人であった。


芥川龍之介は、こんな風。
 芥川の文章は一語一句をゆるがせにしない潔癖性があり、みがきぬかれた文体はきしみあいスックとたちあがっている。しかし、理知的がゆえにダシがきいていない。芥川の指先は味覚を感知しなかった。作家もまた人間であり、食ったほうが強い。鋭利でありながらもろい精神は必然的に自己破滅へむかう。


宮沢賢治に関してもなかなか辛辣で。
 自己分裂している。
 東京にあこがれ、九回も上京しながら、花巻の地方性に執着する。衣服などどうでもいいと言いながら高級なインヴァネスを着る。芸術をめざしつつ純農民になりたがる。生徒にむかって「純粋な百姓のなかから芸術家はできない」と言い放つ。傲慢と自戒が共存している。自己犠牲と奉仕を至上としながらも、他人の親切をうける度量に欠ける。卑下しつつ、他の人の上にたつ。自己を捨てながら自己愛のかたまりだ。ネガティブな自己中心主義者である。
 それらの分裂した自我が、賢治のなかで統一され、賢治文学の魅力となっていくのだが、自虐的粗食は、裏返しの自己愛という意味で美食と裏腹である。もとより貧乏がなせる粗食ではない。


川端康成の描写も面白かった。
この二つの小説が評判になったのは、読者の心のなかにある通俗の願望をうまくすくいあげたためだが、これらの小説を純文芸の位置に高めたのは、恋と苦悩の刃の上を、孤絶した自我が怪しい波をたてながら渡っていくからである。それが康成の真骨頂であり、その奥に透明なニヒリズムがカチカチと音をたてている。それは、孤児として育ち、友人たちに寄宿した康成の精神と無縁ではない。
(*二つの小説というのは「雪国」「伊豆の踊り子」のこと)

これは、檀一雄の章に出てきた言葉。
 料理は人を慰安する。
 素材を煮込んだり、蒸したり、焼いたり、いろいろといじっている混沌の時間は、狂気を押さえつけ、ひたすら内部に鎮静させる力がある。料理に気持ちをこめることは他の欲望をしずめるための手段である。


それから、池波正太郎。清々しい。
 成人して小説家となった池波さんが、おいしい料理を作る職人の気分で小説を書いたことは、ごく自然のなりゆきであった。食べ物のことを書くと、小説は品がなくなりがちである。池波さんにあっては、品がなくなるどころかますますおいしく、よい匂いのする小説を書いた。これは、池波さんが小説を書く好奇心と同じレベルで料理に接していたからである。


最後の章は三島由紀夫。
三島に関する文章はさほど魅力を感じなかった。
なにか、どうにも、著者も「捉え切れていない」印象がある。

しかし、こんなところの描写は好き。
 三島氏は、カチンカチンの「意志」を塗りかためたガラス細工のような視線で、目がピカッと光っていた。

 三島氏は、「虚偽と純粋」をあわせ持っていた人である。人並みなずれた嘘と、人並みはずれた真実を、魔法使いのように使いわけた。じつは、これは料理の手法なのである。三島氏は、知の料理から出発した。


そして文句をつけつつも、最後の一文は私の気持ちと合致した。
しかし、かりに、三島氏が自決せずにすんでいれば、三島氏は谷崎潤一郎をこえる料理小説を書けたはずである。三島氏が華麗な文体と想像力で展開する料理はいかなるものになったであろうか。考えるだけで胸が震える。

うん。読んでみたかった。三島の描く料理小説。

(2016.1.6)
読後に呟いたものが発見されたので、載せておきます。
ツイッターはやめたんじゃないの?と突っ込まれそうですが。
別のアカウントで、月に一度程度つぶやいています。
読書記録用として残そうかどうか悩んでいるところ。

嵐山光三郎「文人悪食」読了。面白過ぎて困った。並み居る文豪達の食欲の旺盛さと我儘ぶりとそれを支える自意識の高さと才能と。生きることを苦しむにも楽しむにも、活力があり余って暴走しているとしか思えないのだけれど。彼らの頭の中で味も磨かれ、あるいは意味付けられ、物語になっていくのだ。

苦手としている作家ほど不思議とその味覚のこだわりや背景にある生い立ち、それによって生じる奇矯なるふるまいが面白く感じられ。幾人かの作家に関しては読み直してみようという気が湧いた。思えば、まだ人生を知らぬ頃に読んだのだもの。今ならば当時感じ取れなかったものが響いてくるかもしれない。

たくさんの作家が取上げられ、ひとりひとりに割くページ数はさほどのものではないのに。密度が濃くて。胃もたれするほどのこってりとした味だった。知っているエピソードもあったのに。それは違う方面から見ていたから。著者の的確な客観的な指摘に今更のように驚いたりもした。

解説で触れられていたけれど。著者の編集者としての目が生きている。作家の目、身内の目では、このように描くことは出来ないだろう。作家のイメージは少々残念なほどに壊される面もあるが。どちらにせよ、物を書く人間の並々ならぬ業の深さに、胸をつかれつつ、しんみりもさせられる。

  

プロフィール

Author:彩月氷香

とにかく本が好き
読書感想がメインですが
時々、写真や雑記も。

*初めましてのご挨拶
*ブログタイトルの由来

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