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文人悪食  嵐山光三郎

4101419051
新潮文庫

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面白い。
作家というものは。
何と業の深い生き物だろう。

食に限らず。
「生きる」ということに貪欲で。
その「食らう」エネルギーに圧倒される。

もっとも、これは嵐山氏の目線ゆえもあるのだろう。
悪どい面がクローズアップされ気味なきらいはある。

それでも。
流布されている作家の印象が大幅に美化されていることも事実。

嵐山氏の筆致が、人物を語るにしても妙に「美味しそう」で。
質感や旨味というものが滴るような描写が愉しい。

たとえば、有島武雄はこのように描かれる。
財に恵まれ、才に恵まれ、容貌に恵まれ、そのうえ偉ぶらない自省の人であり、現在でも、これほど男の条件が揃っている人はちょっと見あたらない。まったくの話、西洋葡萄がよく似あう人物なのである。葡萄色の深い憂愁をたたえ、全身に鮮紅色の液が流れ、視線は透明でとろりと甘い。


本当なのかしら?と疑ってしまう面白い逸話としては。
アメリカでは一番親しまれている俳人は芭蕉でなく山頭火であり、
なかでも「まっすぐな道でさみしい」が好まれ、
「This straight road,full of Loneliness.」
と訳された句を暗唱しているという・・・へぇぇ。

その山頭火はこんなことを言っていたことがあるそうだ。
「自分は与えられる側ではあるけれども、与える先方の者よりも上だという意識がなければならない。さもなくば、本当の意味で『貰う』という事は出来ないものだ。自分が上だと信じていてこそ、初めて経の声もろうろうと出てくるのだ」

著者はそんな山頭火をこう評する。
句がなければただのゴロツキである。日々の生活がすべて句に集約されていくわけだから、句を成立させるためにゴロツキになった。これは放浪者のすべてがそうであり、放浪者は自分勝手である。わがままである。わがままの果ての自我を見定めて、書くから、人々は眩惑され、畏怖し、尊敬する。


志賀直哉に関しては、こんな感じ。
 直哉の小説世界は、日常の嫌悪感に始まって対立と苦悩を生み、解決にいたる。薄気味の悪いガマを照り焼きにして食べたところ、じつはうまくて活力が出た、という話と似ている。(中略)料理を自ら行うものは、食欲への狂気をはらみつつも自省と調和が求められる。なぜならば料理は現実に食うものであるからだ。耽美派谷崎は、食への好奇心と猟奇性においては直哉を凌駕するが、庖丁を持たせれば志賀直哉の方が達人であった。


芥川龍之介は、こんな風。
 芥川の文章は一語一句をゆるがせにしない潔癖性があり、みがきぬかれた文体はきしみあいスックとたちあがっている。しかし、理知的がゆえにダシがきいていない。芥川の指先は味覚を感知しなかった。作家もまた人間であり、食ったほうが強い。鋭利でありながらもろい精神は必然的に自己破滅へむかう。


宮沢賢治に関してもなかなか辛辣で。
 自己分裂している。
 東京にあこがれ、九回も上京しながら、花巻の地方性に執着する。衣服などどうでもいいと言いながら高級なインヴァネスを着る。芸術をめざしつつ純農民になりたがる。生徒にむかって「純粋な百姓のなかから芸術家はできない」と言い放つ。傲慢と自戒が共存している。自己犠牲と奉仕を至上としながらも、他人の親切をうける度量に欠ける。卑下しつつ、他の人の上にたつ。自己を捨てながら自己愛のかたまりだ。ネガティブな自己中心主義者である。
 それらの分裂した自我が、賢治のなかで統一され、賢治文学の魅力となっていくのだが、自虐的粗食は、裏返しの自己愛という意味で美食と裏腹である。もとより貧乏がなせる粗食ではない。


川端康成の描写も面白かった。
この二つの小説が評判になったのは、読者の心のなかにある通俗の願望をうまくすくいあげたためだが、これらの小説を純文芸の位置に高めたのは、恋と苦悩の刃の上を、孤絶した自我が怪しい波をたてながら渡っていくからである。それが康成の真骨頂であり、その奥に透明なニヒリズムがカチカチと音をたてている。それは、孤児として育ち、友人たちに寄宿した康成の精神と無縁ではない。
(*二つの小説というのは「雪国」「伊豆の踊り子」のこと)

これは、檀一雄の章に出てきた言葉。
 料理は人を慰安する。
 素材を煮込んだり、蒸したり、焼いたり、いろいろといじっている混沌の時間は、狂気を押さえつけ、ひたすら内部に鎮静させる力がある。料理に気持ちをこめることは他の欲望をしずめるための手段である。


それから、池波正太郎。清々しい。
 成人して小説家となった池波さんが、おいしい料理を作る職人の気分で小説を書いたことは、ごく自然のなりゆきであった。食べ物のことを書くと、小説は品がなくなりがちである。池波さんにあっては、品がなくなるどころかますますおいしく、よい匂いのする小説を書いた。これは、池波さんが小説を書く好奇心と同じレベルで料理に接していたからである。


最後の章は三島由紀夫。
三島に関する文章はさほど魅力を感じなかった。
なにか、どうにも、著者も「捉え切れていない」印象がある。

しかし、こんなところの描写は好き。
 三島氏は、カチンカチンの「意志」を塗りかためたガラス細工のような視線で、目がピカッと光っていた。

 三島氏は、「虚偽と純粋」をあわせ持っていた人である。人並みなずれた嘘と、人並みはずれた真実を、魔法使いのように使いわけた。じつは、これは料理の手法なのである。三島氏は、知の料理から出発した。


そして文句をつけつつも、最後の一文は私の気持ちと合致した。
しかし、かりに、三島氏が自決せずにすんでいれば、三島氏は谷崎潤一郎をこえる料理小説を書けたはずである。三島氏が華麗な文体と想像力で展開する料理はいかなるものになったであろうか。考えるだけで胸が震える。

うん。読んでみたかった。三島の描く料理小説。

(2016.1.6)
読後に呟いたものが発見されたので、載せておきます。
ツイッターはやめたんじゃないの?と突っ込まれそうですが。
別のアカウントで、月に一度程度つぶやいています。
読書記録用として残そうかどうか悩んでいるところ。

嵐山光三郎「文人悪食」読了。面白過ぎて困った。並み居る文豪達の食欲の旺盛さと我儘ぶりとそれを支える自意識の高さと才能と。生きることを苦しむにも楽しむにも、活力があり余って暴走しているとしか思えないのだけれど。彼らの頭の中で味も磨かれ、あるいは意味付けられ、物語になっていくのだ。

苦手としている作家ほど不思議とその味覚のこだわりや背景にある生い立ち、それによって生じる奇矯なるふるまいが面白く感じられ。幾人かの作家に関しては読み直してみようという気が湧いた。思えば、まだ人生を知らぬ頃に読んだのだもの。今ならば当時感じ取れなかったものが響いてくるかもしれない。

たくさんの作家が取上げられ、ひとりひとりに割くページ数はさほどのものではないのに。密度が濃くて。胃もたれするほどのこってりとした味だった。知っているエピソードもあったのに。それは違う方面から見ていたから。著者の的確な客観的な指摘に今更のように驚いたりもした。

解説で触れられていたけれど。著者の編集者としての目が生きている。作家の目、身内の目では、このように描くことは出来ないだろう。作家のイメージは少々残念なほどに壊される面もあるが。どちらにせよ、物を書く人間の並々ならぬ業の深さに、胸をつかれつつ、しんみりもさせられる。

モーダルな事象  奥泉 光

4163239707

文藝春秋
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本の厚さに、読み通せるか不安を抱きました。
奥泉氏の小説は遊び心満載、サービス満点で、
楽しいけれども高カロリーなイメージがあるので。

それは杞憂で、楽しく読了しました。
相変わらず、ハイテンションにぶっ飛んでます。

しかし。読み終えて、感想を書く気は失せました。
巻末の、千野帽子氏の解説が素晴らし過ぎて。
もう。これを読めば、言うことなぞありません。

ていうかですね。
千野氏が話の中で某作家について触れられ。
それが私のトラウマになっている事件に直結してまして。
蒸し返したくないので抽象的な話になってしまいますが。

未熟な読者は責められるべきものなのか?という自問自答。
いえ。責められていると感じるのは完全なる被害妄想。
読者として至らないという自覚の、歪んだ発露なのでしょうね。

千野帽子氏の解説は。
私では気付けないことを沢山教えてくれて。
それは楽しい発見や学びになったのですけれども。

たまたま、辛い思い出に繋がる一節があって。
そこで、ちょっと考え込んでしまいました。

読者は自分の身の丈にあった、
自分なりの解釈や楽しみ方で読書していい、と。
私はそう思っています。

でも。知識や思考力が足りないと「誤解」するのかな?
千野氏が「誤解」という言葉を使われていたのがひっかかって。

なぜこんなに気にするかというと。
私自身が「誤解をしている」と指摘された側に入るからで。
そのことに感情的な反発を感じてしまうというのもありますが。

私情を抑えて冷静になってみたところで。
その誤解の元となる知識の不足というのは、
補充されなければならないものなのか?という疑問があって。

あ。前提が曖昧なままの話でごめんなさい。

読書における「理解」というものに関しての個人的な話です。
「理解」なんてする気もないと公言しているくせに、
やはり自分の理解不足ということが気にかかってしまうのです。

読む側の自由ということばかり言い張るのも大人げないもので。
書き手への敬意として、理解する努力の姿勢もあるべきで。
その努力の範囲ということを考えてみたりするのです。
能力的にも、気力的にも。自分が出来るのはどのくらいか、って。

そして自分の努力の限度を越える場合は。
そもそも読書の範囲について見直した方がいいのではないか、とも。

一朝一夕に答えが出るものではないので。
それについては、ゆっくりと考えようと思っています。

まったく本の感想になっていなくて、ごめんなさい。

(2015.1.11)
本書はちなみに、本当に面白いです。
短大のダメ准教授が殺人事件に巻き込まれるお話。
千野帽子氏の解説も、問題の一節がなければ大好きでした。
嫌な思い出を呼び起こしたのは氏のせいではありません。
むしろ、いまだに嫌な気分になる自分が哀しいのです。

三百年の謎匣   芦辺 拓

4152086343
早川書房
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なんだろう。えっと。嫌いじゃないです。この作風。
ですが・・・ですが・・・あのぉ・・・

文章が、とってもとっても下手・・・ではないでしょうか?

いえね・・・私、あまり文章に関してケチをつけないタイプの、
かなり大らかな(違う???)読者だと思うんですよ。

翻訳も余程ひどい時以外はさらっと受け流す・・・ていうか、
あまり気にもならない性格なんですよ。

基本的にね、「あ、これはこういう調子なんだな」って、
そのトーンに合わせて行ける柔軟な(ホント?)読者なんです。

まぁたまに・・・ブチ切れてることはありますけど。
その切れっぷりゆえ、思わぬとこから飛んでくるお客様がある、
ええ・・・そういう事例も確かに過去にありましたけれど。

だけど、文章にうるさいタイプの読者ではないんです。
文章を味わう読書とストーリーを楽しむ読書は分けてます。

そりゃ。両方兼ね備えてるのがベストですけれど。
この小説はストーリー重視なんだなと判断すれば、
それはそれなりに読むので・・・大丈夫です(何が?)

小手先な表現とか手抜きとか論旨の明らかな乱れとか。
なんだろう・・・つまりいい加減さを感じると怒るだけです。

って言いつのるほどに、雲行きが怪しくなって参りましたが・・・

いや、久々にこれは「下手過ぎる!文章が!」と、
声を大にして断言できるような作品に出会った気がします・・・

どう下手かというと、まぁ・・・気になる方は読んでみて下さい。
なんでしょね・・・下手過ぎて、面白くなって来たんですね。
もしかして、ワザとなのかなぁってかなり本気で思いました。

下手過ぎて。好感を抱きました。
勝手に想像するだけですが、人柄は良さそうです、著者。

そして、もしかして私もこのくらい下手なのか?と怖くなりました。
形容詞とか言い回しがね、ステレオタイプ過ぎてオカシイんです。
うーん。稚拙というのとも違いましてね・・・
回りくどいというのとも違いましてね・・・

そうですね。いちばんピタっとくるのは。
「こなれていない」でしょうかねぇ。
その「こなれてなさ」が飛びぬけている。

読んでいて、とにかく、ズッコケる文章です。随所で。
毎行ごとに「ドテッ」と転んでいたら、
内容が全然頭に入ってこなくて、凄く困りました。

そして、恐ろしいことに、後半になると慣れてきたんです。
おお・・・人間の順応力ってスバラシイ!

そうですねぇ。なかなかストーリーとしては面白いです。
文章も下手を通り越して、面白いです。

(2014.2.8)
文章が下手だ下手だと騒ぎつつ。
また読んでみようと思う作家さんではありました。

P.S
ツイッターに記事更新通知をする設定をしていたため。
作家さんご本人の眼に留まってしまいました。
これを読まれたのか・・・と思うと、猛烈に申し訳なく。

あの・・・言い訳になりますけど、
読んだときの精神状態がハンパなく悪かったのです・・・
それにしても、改めて読んで、これは・・・これは・・・

記事を消すつもりだったのですけれどもね。
それも姑息と言いますか、すでにリツィートされて、
飛んで来る方もあるでしょうし。

まぁ読んで頂いて、こんなヒドイこと書くヤツがいるんだな、
わかってもないのに、エラそうに身の程知らずだな〜、
馬鹿じゃね〜、くらいに思って頂きとうございます。

このたびのことでは、身にしみて反省しております。
今までも、著作をけちょんけちょんに貶して、
物議を醸したことはありましたけれど・・・

その際は、自分の感想を引っ込めずに受けて立つ!
という気概が持てるくらいには、自分なりに熟孝して、
迷い苦しみつつ、懸命に書いた記事でした。

今回はそうではなくて。
明らかに私の気持ち自体がぞんざいでしたので。
この記事を読んで、芦辺拓氏の文章、著作に対し、
偏見や先入観をお持ちにならないように、お願い致します。

何よりも「下手」という言葉を連発したことは、
私の言葉の選び方の激しいミスです。

これも、かなり雑な表現になってしまいますが、
ユーモアのセンスが私に上手く汲み取れなかったという方が、
まだしも近い感覚かと思います。

あのですね・・・
あまりに慌てて媚びたみたいになると嘘くさいので補足しますね。

確かに「読みにくさ」はあります。
でも、そこが独特な、何とはなしに惹かれる魅力にもなっています。
そこのとこを敢えて「下手」と連発しつつ、
愛情込めて語りたかったのです・・・本当に。

取り急ぎ、乱文にて失礼致します。
(ちなみに、本人はやっと、泥沼から抜け出しつつある状態です。)

真夜中の庭  植田 実

4622076004

みすず書房
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「物語にひそむ建築」と副題にあります。

「物語」の大半は私には懐かしい本でした。
連載されていた雑誌(MOE)の傾向に合わせたからか、
児童文学や絵本が多くを占めます。

ハイジ、小公女、ムーミン、クマのプーさん、ゲド戦記・・・

著者は建築雑誌の編集畑の人なので。
注がれる視線の先に、人よりも場所があるようです。
建築に限らず、人の暮らす土地の記憶。

幼い頃に読んだ本が似ていても。
世代が違うと見えているものは違うのだなという気もする。

粘り気のない、さらりとした語り口が持ち味。
ほんというと、私には少し物足りなくもある。
端正で淡々とし過ぎているように感じられて。
もっと言うと、踏み込みが足りない!という印象。

一方、どこかひんやりとした視点が心地よくもある。
飾り気のない額縁で、景色を切り取ったような印象。
ドラマチックではない、あくまでも何気ない、でも選ばれた場面。

本業(?)の建築関係の著作をぜひ読んでみたいと思います。

(2013.1.26)
著者の建築関係の本は絶版が多かった。
写真集的色合いが強い気もしますが、以下二冊が気になる。


集合住宅物語
集合住宅物語
アパートメント―世界の夢の集合住宅 (コロナ・ブックス)
アパートメント―世界の夢の集合住宅 (コロナ・ブックス)

ブイヨンの日々。 糸井 重里

4902516438
ほぼ日ブックス
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ブイヨンちゃんは、ご存知の方もあると思いますが。
糸井重里さん、樋口可南子さん夫妻の愛犬。
賢くて可愛いジャック・ラッセル・テリアの女の子。

本書の内容はと言えば、
その写真(ほぼ糸井さんの撮影、時々可南子さん)と、
ブイヨンちゃんのつぶやき(糸井さんの創作)なわけですが。

もうもう、これが。ひたすら愛くるしい!

こういっちゃ失礼ですが。
写真は素人の写真な訳ですし、台詞だってウソっぱち。
・・・とわかっていても。

きゃー。きゃー。ブイヨンちゃーん♡

眺めてるだけで、顔がとろけそうになります。
私、そんなに犬が好きなわけじゃなかったりするんですけど。
ブイヨンちゃんにはメロメロです。

ただ、ジャック・ラッセル・テリアは。
「非常に飼い難い」ことで有名な犬でもあるので。
気軽に欲しがっちゃいけないワンコなんですってね・・・

こうして、本で眺めて和むだけで我慢します。

(2012.11.4)
それにしても糸井さんのセンス、さすがです。
かつて一世を風靡したコピーライターだけあって、
さりげない言葉で見事にツボをついてくるんですよねぇ。

  

プロフィール

Author:彩月氷香

とにかく本が好き
読書感想がメインですが
時々、写真や雑記も。

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