『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』村上春樹
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最初にお詫びを。この感想は、とてつもなく長く。
その長さに見合うだけの内容があるとは到底、言えません。
不完全ながら、私が個人的な感情の整理のために書いたようなものです。
気が済むまで、きちんと書いたら本一冊になりそうなところを、
無理矢理に縮めたため、なんとも不親切な文章となっております。
お読みになることを積極的にお勧めはいたしません。
時間がない方、村上春樹に興味がない方、あるいは彼の大ファンの方は、
特に、避けて頂いた方がよろしいかと存じます。
今回ばかりは、書き逃げ御免をお許し願いたいと思います。
補足するならば、否定的な感想に見えるかもしれませんが、
本書は春樹ファンでなくとも読む値打ちのある本です。
近い期間に二度読みましたが、非常に面白く読みました。
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この本を読んだのは、ちょうど1か月前。感想を書こう書こうと思いながら書けず、宿題のように抱えていた。それはまるで日が過ぎるほどに重くなる荷物のようだった。つまらなかったのではない。インタビュー集から見えてくる村上春樹の作家としての「意識」と「戦略」は、たいへん興味深く、面白かった。
しかも、この本に集められたインタビューは、私が小説家・村上春樹に幻滅し始めた頃とぴたりと重なっており、主に語られる著作は私が好きではない作品群。村上春樹の意図と、それに沿わなかった自分の感性・感覚との齟齬を彼の言葉から読み解いていくのは知的好奇心をを満たす楽しい作業だった。
私が初期の村上春樹作品を好み、ある時期からの彼を評価していないことは、何度か触れたのでご存じの方もあると思う。文体が伝染するほど好きだった作家の作品を、「投げ捨ててやりたい」と思うようになった日の絶望は今も薄れてはいない。
エッセイや、ドキュメンタリー、紀行文は今も共感しながら拝読しているところからして。現在の彼の小説技法、もしくは物語の方向が私には居心地が悪いということなのだろう。ただ、愛が憎しみに変わる程のどんな変化が起きたのか、解明できていない。
「ああ~、何だ、何だ、何だ、何だ、これは!どうして、こうなる!」という怒りと苛立ちに、読後に襲われる。「国境の南・太陽の西」ぐらいからじわじわと、以後「アフター・ダーク」「スプートニクの恋人」でダメージを受け、「海辺のカフカ」で決定打を喰らった。
この気持ちは表に出せず、ひっそりと抱えてきた。しかし、ぼそぼそ遠慮がちに「昔の春樹が良かった」と呟いていると、どうやら同じ思いの人は少なからず存在しているようだ。
このインタビュー集では、興味深い事実が随所で明らかになる。「ノルウェイの森」を書き始めた時、6人のうち3人が死ぬというアイデアを持っていたが、それが誰かはわからずに「誰が生き残るのだろう」と自問しながら書いていたというのは特に印象深いエピソードだ。
図らずも「本当に自殺する理由を持っていたのは永沢さんだけ」と看破した批評に出会って、膝を打ったところだった。(こちら、静麿氏の「乱文乱読多謝」の記事。ぜひご一読頂きたい見事な批評です→http://sizuma883.blog9.fc2.com/blog-entry-42.html)
とはいえ、「ノルウェイの森」は私の愛する作品に含まれている。彼が初めて挑戦したリアリズムの作品として完成した形をなしていると思う。が、この作品から彼の著作を受け付けなくなったという声もあり、それも理解できなくはない。掘り下げるのは控えるが、ヒントは上記のエピソードなどにも表れているだろう。
最初の二作は習作だったというのも聞き逃せない。彼は伝統的な日本文学のある種の解体を試み、それが上手くできるようになった手応えを得たのが三作目の「羊をめぐる冒険」だったと語る。「この作品が僕にとっての本当の出発点だった」と。そして奇しくも、私にとって春樹の最高傑作はこの作品なのである。
ともあれ、彼の作家としての姿勢は、立派だと思う。
「ページをめくるたびごとに絶えず進化し続ける物語を書きたい」
「僕が書きたいのは―僕が書く小説です。誰のものでもない、僕の小説」
彼が私淑する小説家が、レイモンド・カーヴァーや、チャンドラー、フィッツジェラルドであるのは有名だ。当然、彼らの名は頻繁に登場する。驚いたのは彼が目標とする作家がドストエフスキーであるということ。最終目標は「カラマーゾフの兄弟」と言いきっているし、「ドストエフスキーが僕のアイドルで理想です」という発言も見られる。
村上春樹とドストエフスキーを並べると違和感を感じるが、この志の高さは注目に値する。ドストエフスキーと言えば、聳え立つ巨塔であり、誰もその横に並びたいなどとは発言していないと思う。これが口に出せるところが彼の強みなのかもしれない。
対して同時代の作家に対しては礼儀正しい冷やかさと距離感が感じられる。例外として特筆すべきはカズオ・イシグロへの高い評価。彼の小説はすぐ買って読むのだそうだ。なるほど、と思う。
「海辺のカフカ」を「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の続編のつもりで書き始めたということ、「世界と~」はいちばん好きな作品であること、漱石の「抗夫」が好き、「悪」というものに対する極めて強い意識が「世界と終り~」の頃から増大していったこと、カフカを最初に読んだのは15歳の時で、作品は「城」であったこと、宮崎駿のアニメは一つとして見たことがないこと、三人称で書くのが恥ずかしかったこと・・・。
拾い上げればキリのない、気になるエピソードが満載。宮崎駿の件は衝撃だった。世界に通用する日本人芸術家のトップ10に入るであろう監督の作品を見ていない?アニメーションは興味がない?まぁ落ち着いて考えれば、それもありそうな話なのだが。
皮肉にも、海外のインタビュアーが「あなたにもっとも近いところにいる日本のアーティストは宮崎駿だと思います」と切り出して、それでこの答えが出てきたのである。こういう発言は日本人でないから出てくるのだろうし、的を得ているかというと疑わしい。が、この突飛な質問のおかげで、村上春樹はアニメは全く見ないという事実が判明したわけだ。
「人生の限られた時間を節約して使うために、自分の興味のあることと、自分に興味のないこととを、はっきり分別する傾向が僕には強くあります」
この春樹の発言は、見事な自己分析であると思う。彼はとても狭い庭を丹精している庭師のような面がある。私自身も多少そういう傾向はあるが、彼ほど強固ではないし、後天的に必要に駆られてつけたものだ。自己のアイデンティティーを重要視する人間にとって、物や文化の氾濫は脅威である。現代において確固たる自己の美意識や価値観を保つことは、余程の才能を持って生まれるか、いい具合に閉ざされた文化的な家庭にでも育たないと難しいと思う。
芸術家というものは、好みを広くは持っていないものだと感じているが、私はそうではないから構わないと開き直っている。ただ本は何でも読む代わりに、アニメと漫画は無視すると決めている。下手な小説より文化的価値の高い漫画があることは承知しているが、せめてそこだけは選択肢を狭めようと。
さて。脱線したので、話を戻して。そういう狭さこそが生み出す空間の心地よさが、彼の作品にはある。彼の人格が大きく変わるのでない限り、それは消えずに連綿と続いていくはずのものだ。それなのに、それが途絶えてしまったように感じられるのは何故だろう。
本書を読んでいて、私が思い浮かんだ言葉がある。「意識的な変貌」
そう、彼は意識して自分の作風を改革し続けてきた。そのことが、言葉の端々から窺われる。物語の行く末はいつもわからないと言いながら、技法やシーンや物語の展開を暗示するキーワードについて多くの言葉を割いている。
彼の認識では、無意識と作為の間の溝は埋められているようだが、私はそこに断絶を感じる。自然な流れで物語に乗っていくことができない。彼の作為がいちいち、ひっかかる。それがどんな時にどういう具合にかを説明するには、私が嫌いな作品を丹念に読み返すしかないだろうが、その苦行に乗り出す気持ちにはなれない。
「新しい小説を書くたびに、僕は前の作品のストラクチャーを崩していきたいと思います。そして新しい枠を作り上げたいと。そして新しい小説を書くたびに、新しいテーマや、新しい制約や、新しいヴィジョンをそこに持ち込みたいと思います。僕はいつもストラクチャーに興味があるんです。ストラクチャーを変えたら、それにつれて僕は自分の文体を変えなくてはなりません。文体を変えたら、それにつれて登場人物のキャラクターをも変えなくてはなりません。同じことばかりいつまでもやっていたら、自分でも飽きてしまいます。僕は退屈したくないのです。」
その変化に違和感を感じ、馴染めない。では、私は置き去りにされた愚昧な読者ということか。しかし、彼のこの志にも関わらず「前進」でなく「後退」を、変化ではなく過去のキャラクターや物語の「改悪」を感じるのは何故だろう。彼自身が退屈しまいと凝らす工夫に「退屈」するのは何故だろう。
村上春樹の「意識的な変貌」に、ひずみがあるように思うのは、あくまでも個人的な感想に過ぎません。それだけを書き添えて、この長過ぎた感想を終わりにします。
(2011.6.29)
この本を読んだのは、ちょうど1か月前。感想を書こう書こうと思いながら書けず、宿題のように抱えていた。それはまるで日が過ぎるほどに重くなる荷物のようだった。つまらなかったのではない。インタビュー集から見えてくる村上春樹の作家としての「意識」と「戦略」は、たいへん興味深く、面白かった。
しかも、この本に集められたインタビューは、私が小説家・村上春樹に幻滅し始めた頃とぴたりと重なっており、主に語られる著作は私が好きではない作品群。村上春樹の意図と、それに沿わなかった自分の感性・感覚との齟齬を彼の言葉から読み解いていくのは知的好奇心をを満たす楽しい作業だった。
私が初期の村上春樹作品を好み、ある時期からの彼を評価していないことは、何度か触れたのでご存じの方もあると思う。文体が伝染するほど好きだった作家の作品を、「投げ捨ててやりたい」と思うようになった日の絶望は今も薄れてはいない。
エッセイや、ドキュメンタリー、紀行文は今も共感しながら拝読しているところからして。現在の彼の小説技法、もしくは物語の方向が私には居心地が悪いということなのだろう。ただ、愛が憎しみに変わる程のどんな変化が起きたのか、解明できていない。
「ああ~、何だ、何だ、何だ、何だ、これは!どうして、こうなる!」という怒りと苛立ちに、読後に襲われる。「国境の南・太陽の西」ぐらいからじわじわと、以後「アフター・ダーク」「スプートニクの恋人」でダメージを受け、「海辺のカフカ」で決定打を喰らった。
この気持ちは表に出せず、ひっそりと抱えてきた。しかし、ぼそぼそ遠慮がちに「昔の春樹が良かった」と呟いていると、どうやら同じ思いの人は少なからず存在しているようだ。
このインタビュー集では、興味深い事実が随所で明らかになる。「ノルウェイの森」を書き始めた時、6人のうち3人が死ぬというアイデアを持っていたが、それが誰かはわからずに「誰が生き残るのだろう」と自問しながら書いていたというのは特に印象深いエピソードだ。
図らずも「本当に自殺する理由を持っていたのは永沢さんだけ」と看破した批評に出会って、膝を打ったところだった。(こちら、静麿氏の「乱文乱読多謝」の記事。ぜひご一読頂きたい見事な批評です→http://sizuma883.blog9.fc2.com/blog-entry-42.html)
とはいえ、「ノルウェイの森」は私の愛する作品に含まれている。彼が初めて挑戦したリアリズムの作品として完成した形をなしていると思う。が、この作品から彼の著作を受け付けなくなったという声もあり、それも理解できなくはない。掘り下げるのは控えるが、ヒントは上記のエピソードなどにも表れているだろう。
最初の二作は習作だったというのも聞き逃せない。彼は伝統的な日本文学のある種の解体を試み、それが上手くできるようになった手応えを得たのが三作目の「羊をめぐる冒険」だったと語る。「この作品が僕にとっての本当の出発点だった」と。そして奇しくも、私にとって春樹の最高傑作はこの作品なのである。
ともあれ、彼の作家としての姿勢は、立派だと思う。
「ページをめくるたびごとに絶えず進化し続ける物語を書きたい」
「僕が書きたいのは―僕が書く小説です。誰のものでもない、僕の小説」
彼が私淑する小説家が、レイモンド・カーヴァーや、チャンドラー、フィッツジェラルドであるのは有名だ。当然、彼らの名は頻繁に登場する。驚いたのは彼が目標とする作家がドストエフスキーであるということ。最終目標は「カラマーゾフの兄弟」と言いきっているし、「ドストエフスキーが僕のアイドルで理想です」という発言も見られる。
村上春樹とドストエフスキーを並べると違和感を感じるが、この志の高さは注目に値する。ドストエフスキーと言えば、聳え立つ巨塔であり、誰もその横に並びたいなどとは発言していないと思う。これが口に出せるところが彼の強みなのかもしれない。
対して同時代の作家に対しては礼儀正しい冷やかさと距離感が感じられる。例外として特筆すべきはカズオ・イシグロへの高い評価。彼の小説はすぐ買って読むのだそうだ。なるほど、と思う。
「海辺のカフカ」を「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の続編のつもりで書き始めたということ、「世界と~」はいちばん好きな作品であること、漱石の「抗夫」が好き、「悪」というものに対する極めて強い意識が「世界と終り~」の頃から増大していったこと、カフカを最初に読んだのは15歳の時で、作品は「城」であったこと、宮崎駿のアニメは一つとして見たことがないこと、三人称で書くのが恥ずかしかったこと・・・。
拾い上げればキリのない、気になるエピソードが満載。宮崎駿の件は衝撃だった。世界に通用する日本人芸術家のトップ10に入るであろう監督の作品を見ていない?アニメーションは興味がない?まぁ落ち着いて考えれば、それもありそうな話なのだが。
皮肉にも、海外のインタビュアーが「あなたにもっとも近いところにいる日本のアーティストは宮崎駿だと思います」と切り出して、それでこの答えが出てきたのである。こういう発言は日本人でないから出てくるのだろうし、的を得ているかというと疑わしい。が、この突飛な質問のおかげで、村上春樹はアニメは全く見ないという事実が判明したわけだ。
「人生の限られた時間を節約して使うために、自分の興味のあることと、自分に興味のないこととを、はっきり分別する傾向が僕には強くあります」
この春樹の発言は、見事な自己分析であると思う。彼はとても狭い庭を丹精している庭師のような面がある。私自身も多少そういう傾向はあるが、彼ほど強固ではないし、後天的に必要に駆られてつけたものだ。自己のアイデンティティーを重要視する人間にとって、物や文化の氾濫は脅威である。現代において確固たる自己の美意識や価値観を保つことは、余程の才能を持って生まれるか、いい具合に閉ざされた文化的な家庭にでも育たないと難しいと思う。
芸術家というものは、好みを広くは持っていないものだと感じているが、私はそうではないから構わないと開き直っている。ただ本は何でも読む代わりに、アニメと漫画は無視すると決めている。下手な小説より文化的価値の高い漫画があることは承知しているが、せめてそこだけは選択肢を狭めようと。
さて。脱線したので、話を戻して。そういう狭さこそが生み出す空間の心地よさが、彼の作品にはある。彼の人格が大きく変わるのでない限り、それは消えずに連綿と続いていくはずのものだ。それなのに、それが途絶えてしまったように感じられるのは何故だろう。
本書を読んでいて、私が思い浮かんだ言葉がある。「意識的な変貌」
そう、彼は意識して自分の作風を改革し続けてきた。そのことが、言葉の端々から窺われる。物語の行く末はいつもわからないと言いながら、技法やシーンや物語の展開を暗示するキーワードについて多くの言葉を割いている。
彼の認識では、無意識と作為の間の溝は埋められているようだが、私はそこに断絶を感じる。自然な流れで物語に乗っていくことができない。彼の作為がいちいち、ひっかかる。それがどんな時にどういう具合にかを説明するには、私が嫌いな作品を丹念に読み返すしかないだろうが、その苦行に乗り出す気持ちにはなれない。
「新しい小説を書くたびに、僕は前の作品のストラクチャーを崩していきたいと思います。そして新しい枠を作り上げたいと。そして新しい小説を書くたびに、新しいテーマや、新しい制約や、新しいヴィジョンをそこに持ち込みたいと思います。僕はいつもストラクチャーに興味があるんです。ストラクチャーを変えたら、それにつれて僕は自分の文体を変えなくてはなりません。文体を変えたら、それにつれて登場人物のキャラクターをも変えなくてはなりません。同じことばかりいつまでもやっていたら、自分でも飽きてしまいます。僕は退屈したくないのです。」
その変化に違和感を感じ、馴染めない。では、私は置き去りにされた愚昧な読者ということか。しかし、彼のこの志にも関わらず「前進」でなく「後退」を、変化ではなく過去のキャラクターや物語の「改悪」を感じるのは何故だろう。彼自身が退屈しまいと凝らす工夫に「退屈」するのは何故だろう。
村上春樹の「意識的な変貌」に、ひずみがあるように思うのは、あくまでも個人的な感想に過ぎません。それだけを書き添えて、この長過ぎた感想を終わりにします。
(2011.6.29)
