『アサッテの人 』 諏訪哲史
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外は冬の空模様で、僕は自室の炬燵に入り、日がな一日サミュエル・ベケットを読んでいた。
人間は何もしなければ死ぬ。死を避けるには食わねばならない。食うためには働かねばならない。当時僕は、人間には「何もしない」ことを選びとることはできない、という万古不易の命題に、言い知れぬ不条理を感じていた。「何もしない」ことで、なぜ人間は不幸へのみ向かわざるを得ないのか。
モンゴル人は悪魔に我が子を奪われないよう、悪魔を欺くために、風変わりな名前をつける。
「名無し」「名前じゃない」「人間じゃない」「だれでもない」
「名無し」「名前じゃない」「人間じゃない」「だれでもない」
公休日の今日は、朝から団地の児童公園に日向ぼっこしにゆく。
お茶の入ったペットボトルと、きのう帰りに佐々木ストアーで買っておいた野菜コロッケ三つ、パウル・ツェランの詩集、そしてこのノートと万年筆。
お茶の入ったペットボトルと、きのう帰りに佐々木ストアーで買っておいた野菜コロッケ三つ、パウル・ツェランの詩集、そしてこのノートと万年筆。
彼のアサッテは自意識という名の癌によって、また、のっぴきならない「作為」の刻印によって蚕食されたのである。
クライストのエッセイ『マリオネット芝居について』
以上、何となく心に残った文章の断片。
正直申し上げますと。この人の文体は苦手。
作風も・・・ 所々「受け付けない」。
かと言って嫌いでもない。
じゃあ好きでも嫌いでもない、というわけでもない。
無視し難い何かは感じるのだけれど。
積極的に読みたい気持ちになるということはない。
著者が「書きたい」ことを持っていることを感じる。
そして、面白みはある。哲学的葛藤もある。
私が好きになれそうな要素は結構あるのに。
他の作品を読んでも好きになることはないだろうと確信する。
なんでしょね。
作品に「頑張ってる感」があり過ぎるのですよね。
そこに好意を抱けないわけではないのだけれども。
私が読みたいのはそういう苦心惨憺の跡が見える作品ではない。
良し悪しの問題ではなくて。ま、好みです。
好き嫌いの別れる作家さんだろうなと感じます。
まぁでも。私としては毛嫌いもしないし。
無視して抹殺しようというでもなく、仄かに興味は湧きます。
気まぐれに、もう1冊くらいは読んでみるのだろうな。
そして、やっぱり悪くないけれど好きになれない、と思うだろうな。
自分に近しい感覚も少なからず作品の中に感じ取れて。
だけど、その感覚の処理方法が大きく異なっている・・・ような?
近くまで来てたけど、ギュン、と大きく曲がって。
それこそ「アサッテ」の方角へ走り去っていったという雰囲気。
趣向を凝らしている割に、平凡に見える。
あ、それは言い過ぎかな。才気が溢れてそうなのに、単純。
う・・・ごめんなさい。これじゃ愚弄してると言われても仕方ない。
いい意味でも悪い意味でも、飾り付けの面白い「普通」な印象で。
だ、ダメだ・・・フォローしようとすればするほど貶してしまってる。
第137回(平成19年度上半期) 芥川賞受賞
第50回(2007年) 群像新人文学賞受賞
ダブル受賞は村上龍以来なんですって。
そういえば、村上龍も私が大の苦手の作家でしたわ・・・
だけど、受賞作だけが好き嫌いを越えて、凄いと思ったのですが。
なんだろうな。なんだろうな。気になる違和感。
不器用な作為なのか。不器用に見せかけている作為なのか。
どちらにしても。
私は表面が滑らかなものを好んでしまう弱点があるのは確かです。
(2015.3.18)