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努力しない生き方  桜井章一

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集英社新書

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 努力という感覚で頑張るとどこか不自然に力が入って、かならず嘘っぽくなるものだ。私はそんな嘘っぽさに違和感を覚えてしまう。

 仕事でもスムースに進めるコツはいかに力を入れないかである。

 恋愛や趣味に一生懸命になっている人は「力」なんか入っていないし、「努力」もしていないだろう。

 「力」が入るとたいていあまりいい結果は生まれない。仮に目的を達成してもどこかにひずみを生むものだ。

 私はふつうならここで「力」を入れないと、という局面では「力」を抜くようにする。「力」が抜けているほど、物事はスムースにいくものだ。(中略)だがこの「力」を抜くのは以外とむずかしい。無力な状態になるというのとはぜんぜん違うからだ。

 牌を持たない感覚で打つという話は日常のことにも置き換えられる。われわれ現代人は物質的にも精神的にもあまりにも多くのものを持ち過ぎている。持っているものが多過ぎて、自由さを失い、息が詰まったような生き方になっている。

 そうなったのもモノにしろ、知識にしろ、持てば持つほどいいことと思い込んでいるからにほかならないのだが、実際は逆だ。持って持って離すまいと、ギュッと握りしめているから力がますます入って身動きがとれなくなる。
 たまには握った手を放してみてはどうだろうか。きっと掌に心地よい風を感じるに違いない。

 しかし、何かを得れば、その裏側では何かを失っているものなのだ。望むものをつかんで「やった!」と思っても、その瞬間、気づかないところでは何かが失われるのだと思ったほうがいい。

「足し算」的人生を追っている限りその人は、「得る」ことにとらわれている。「得る」ことのプラス面だけを見続けていれば当然その裏側にのマイナス面は視野に入ってこない。
 だから、ひたすら「足し算」な発想でやっていくと、失ったものが積み重なってかならずおかしなひずみが生じてどこかで破綻をきたすことになる。

「恨み」という言葉で今の世の中をとらえたとき、今ほど恨みの強い時代はこれまでなかったのではないかという思いに駆られる。
 恨みが自分に向かったときの最も強い表現は自殺である。(中略)自分を恨まないようになるにはどうすればいいのか。それは諦めがよくなることだと思う。(中略)諦めないことで恨みがましくなったり、ひねくれたり、卑しくなったりするなら、きれいさっぱりと諦めたほうがいいのである。

 諦めが上手い人は自分を責めることもなく他人を責めることもない。

 生きていくかぎり、壁にぶつからないことはありえないわけで、逆に壁がないということのほうが問題である。壁であってもそこから目をそらしていると成長も進歩もない。壁が現れたら、それがどんな壁かしっかり見きわめることが大切だと思う。
 人は壁が現れたとき、条件反射のようにそれは乗り越えるべきものとしてとらえる。しかし、私はけっしてそうとらえる必要はないと思う。壁はいつでも乗り越えられればいいが、そうやすやすと乗り越えられないことも多い。
 壁を乗り越えられないのは、壁を意識し過ぎるからである。意識し過ぎれば気持ちが萎縮してしまう。絶望的な気持ちになって諦めたり、やぶれかぶれになったりする。
 私は壁は越えるのではなく、上に乗っかればいいと思う。壁を越えるのはむずかしくても壁の上に乗るのは勇気さえできるはずだ。

 期待するより期待しないほうが、物事は上手くいくことが多い。期待しないと変に気張ることもなく、余裕を持てるからだろう。余裕があれば全体が冷静に眺められ、正確に考えたり、動けたりする。期待しなくとも、やるべきことを正しくやっていればおのずとしかるべき答えは出るものだ。

 賢く見せることに一生懸命になるといろいろなところで辛くなるが、賢くないダメな面も最初から素直に出しておくと楽である。計算もなく素をそのまま出すと相手はマイナス面も含めて存在そのものを受けいれてくれる。

 世の中では「勝つ」ことはいいことだとされているが、この「勝つ」は「得よう」という欲求で同じで際限がないのである。「勝つ」ことが至上の目的になれば手段を選ばなくなってくるからおのずと仕事でも人生でも卑しく汚いものが入ってくる。
 しかし、「負けない」という感覚は自然の本能に近いところからくるものなので、必要以上に相手を攻撃したり、ダメージを与えたりということがない。「負けない」という気持ちでやれば節度のあるきれいな勝負になるのである。

 ふだんわれわれは、自分の中で「足りている」ものをいかにムダにしているかということである。使わないでもったいないことをたくさんしておきながら、「足りない、足りない」と嘆いているのである。
 「足りていない」と思っている状態は、実はすでに豊かな状態なのだ。自分には「何もない」と感じていても、すでにすべてが与えられていると思ってよいのである。

 人の才能や能力というのはそういう意味ではきわめて相対的なものだ。そんなものより私はもっと人の根っ子にある大きな才能のほうが大事だと思う。
 それは何かと言うと「生きる」という才能だ。生きとし生けるものはみな生命に恵まれて、生命を連続させることで今を生きている。私はそれこそが人が持つ普遍的な才能だと思う。

 「この仕事がすんだらちょっと休もう」と思うから、仕事が疲れて辛いものになったりするのである。そうではなく、仕事をしながらその中で自然と休む。そんな感覚で仕事ができれば言うことはない。
 
 初対面の人と会うとき、人は誰しもたとえ一瞬にせよ、相手がどんな人か、あるいは何を考えているかを探ったり、読んだりする。親しい仲でも、相手の真意を探っていろいろな角度から相手を読むということを無意識にやったりしている。
 しかし私は、人と接しているときに大切なのはこのような分析よりも、相手をありのままに感じることだと思う。
(中略) 分析すると相手のイメージはそこで固定されてしまい、相手が変わってもその変化に気づかなかったりする。しかし、感じるように接すれば相手も水が流れるように絶えず変化しているのがわかるだろう。
(中略)人が人が分析をもって理解するということは最終的に不可能なことである。それよりも、自分が素直になって相手を感じるほうが、相手を少しでも「わかる」状態になる。

 人が絶対という言葉を使うときは、相手を騙そうという動機でなければ、自分の分析に過大な自信を持っているが、強い思い込みをしているか、おかしな妄想を抱いているか、おおよそそんな理由からである。

 「何となく」という感覚で対処していったほうが、「絶対」という気持ちでいくよりも長く続くものだし、「だいたい」という感覚でいったほうが的を射る。
 「何となく」や「だいたい」の感覚は、力みをなくし、それゆえに余裕を持って全体を見ることができるからだと思う。「絶対」と力んでいるときは視野は狭くなり、感覚は鈍くなる。

 熱心に勉強しているような人は本を読みながら知識がどんどんたまっていくのだろうが、私は新しい知識に触れてもすぐに忘れてしまう。
 知識を足し算して新しい知識をつくりだそうというのが一般的な考え方なら、私の場合は半ば無意識のうちに引き算の発想をしているのかもしれない。
 つまり、知識を増やすと逆に自分の仲から新鮮なものは出てこなくなる、あるいは本能的な感覚がなくなる、そんなことをどこか肌で感じているのだ。だから無闇に知識を増やす必要はないと思って、入ってきた知識もすぐに抜けてしまったりするのかもしれない。

 知識は思考の道具であり材料であるが、その道具や材料が多過ぎると、思考の作業にムダが増え、生き方がブレてしまったりするのだ。
(中略) 知識はためこまず忘れる。知識は十分にあるはずなのに一向に現実は変わらない、生活は変わらない、そう感じている人がもしいたら一度そういう発想をしてみるといいかもしれない。

 仕事そのものも努力して頑張るのではなく、工夫をすることで楽しくする。そうすることができれば仕事は実際、速くなる。

 せかされた気持ちで物事をなすと往々にしてミスをするし、たとえミスをしなくても質の伴わない結果になるものだ。それに仕事や用事に自分が支配されているような感じになってきて気分もあまりよくない。

 いずれにせよ、走るように仕事したり生活を送るのはいいことではない。走ってばかりいると精神は摩耗していくし、本当に失敗も多くなる。

 せかされる状況を招かないようにするには、仕事を速く楽しくやるコツをつかむことだ。
 それにはまずしかるべき準備をきちんとしておく。そうすればいざその仕事をする段階であわてることはない。さらに仕事そのものも努力して頑張るのではなく、工夫をすることで楽しくする。そうすることができれば仕事は実際、速くなる。

 遅刻グセの場合も遅刻はダメだ、ダメだと思うだけでは改善されない。そうではなくて早めにいったときの体験とその感覚をベースにすることが修正へのきっかけになる。

 正そうと思うことは、そこだけを取り出して正そうとしないことだ。それとは直接関係のないところに正すきっかけとなるツボが潜んでいたりする。それをあわてずに見つけることだ。

 「意味を求める」姿勢だけでいくと、人は意味に縛られて窒息してくる。もっとも、そうなっても本人は窒息していることにはなかなか気がつかなかったりする。なぜなら、意味を絶えず求めている人は意味のあるところでしか呼吸ができないと思い込んでいるからだ。だが、意味のないところではもっと深い呼吸ができるのである。
 意味があるかないか、そんなことをいつも計算してしまうような人は、「先に意味なし」の状態でもどんどん動いていけばいいと思う。頭で意味を考えようとせず、感覚で動いていくのだ。心配しなくても動いているうちに意味は後からついてくる。

 自分の中になにかあるとすれば、せいぜい、こうなったらいいかなぐらいのうっすらとした思いである。一瞬思ったら、その後は忘れてしまうような薄い思いである。しかし、そんな感覚でいたほうが強く求めるより、いい結果をもたらすのだ。
 それと同時に私が何事も強く求めないのは、そんな強い願望にはその先にどんな崇高な目標や夢があってもどこか卑しさを感じるからだ。夢という言葉はきれいな響きがあるが、夢だって求め方によっては卑しくなるのである。

 目標はなるべく多く持ってっていたほうがいい。目標が多過ぎてしんどいという人がいたら、それは目標の立て方やそれへ近づく方法に問題がある。
 目標は一つに絞り込むべきだという考えもあるが、一つだけの目標を熱心に追い求めると思考や行動の柔軟性がなくなってくる。
(中略)しかし、目標をいろいろ持つだけでは足し算の生き方になってしまう。目標を引き算にするには、目標を前に置くのではなくて横に置くことだ。
(中略)つまり目標は両脇に置くような感覚がいい。横をふと見ると目標が見えるような感覚。
(中略)目標を前に置くと、姿勢が前のめりになって視野が狭くなるが、両脇に置けばそんなことにはならない。余裕を持って目標と伴走できるのである。

 動物も植物も地球も月も太陽も、彼らは「答え」を求めない。「分からない」という状況にあって「迷い」を起こすのは人間だけ。
 でも、「分からない」というのは、本当は魅力的なことだし、楽しいことだ。異性に惹かれるのも本質的に相手がわからないからである。「分からない」という状態は生きることを豊かにするものなのだ。
 だから、もっと「分からない」ということは大事にすればいいと思う。「分からない」ことに耐えられなくなって、人生の「答え」を安易に求めることはないのだ。

 メジャーなものはつくり手や供給する人の顔が見えにくいが、マイナーなものは個人の顔がよく見える。だが、誰しも基本は自分の顔を持ったマイナーな存在だ。しかしメジャーを求め過ぎると、人はそんな自分の顔を忘れて見失ってしまう。

 人は自由になりたいとき、さまざまな決まり事やルールなどの制約から自由になることを夢見る。
 しかし、考えてみてほしい。たとえば、麻雀でもほかのゲームでもルールがあるからこそ成り立っているのであって、ルールがないところに麻雀やゲームは成り立たない。ゲームを楽しむにはルールが必要なのだ。 
 人生が一つの大きなゲームだとすれば、このゲームにもまたルールが必要なのである。
(中略)ルールのない世界にいけば、自由を得るようでいて実際はとてつもなく不自由を覚えるだろう。自由とはあくまでルールの中にある。ルールの中にあって微妙なバランスの上に成り立っているものなのである。

 しかし我慢を通して自分の存在を自覚するというのはどこかいびつなものがある。我慢をひとつの核にして精神形成がなされていくのは、いいことではないと思う。
 我慢をしたら何か報われるという感覚は、ほとんどの人が幼いころから擦り込まれたものだ。しかし、我慢がもたらす精神的ダメージは小さいものではないし、それによってまた必ずしも報われるというものでもないのだ。

 「裏がある」という言い方はどこか非難がこもっているが、はたして表だけの人間なんてそもそもいるのだろうか。
(中略)表だけで生きようとすると、無意識にいろいろなものをため込み過ぎてどこかに無理が生じるはずだ。
(中略)人は表と裏どころか、たくさんの面を本当は持っている。その面が多いほど生きる幅も広くなるのである。

 どんなに社会的に立派な人でも人間的にダメなところはかならずあるし、人間的に優れていると思われる人でもそうでない部分はどこかにあるものだ。完全な人間などいない。
 尊敬が熱くなるとそんなマイナスの部分が見えなくなり、ひたすら美化してしまう。そんなところから間違いは起こる。

 崇拝に向かう心理というのは人間的な弱さからくるものである。崇拝する人は自分の中にある根本的な弱さが、崇拝の対象となる人に救われるような気持ちになるのだ。しかし、それは相手に過度な幻想を抱くことなので、それが冷めてしまうと反動で尊敬の念すら残っていなかったりするのである。
 だから尊敬するということにあまり熱くなってはいけない。尊敬にも適温が必要なのだ。

 私は自分にとって嫌なものであっても、端からはなつけるようなことはしないで、いったんは自分の中を通してみるようにしている。通してみて本当に嫌なら後ろから抜けばいいと思っている。

 自然の生態や本能的なレベルから言っても人は一つだけのものに向かうべきでないのだ。一つだけを貫くのでなく、多に向かって多を楽しむ。そのことが人をより大きな可能性に向けて開いていくのである。

 人を数字の世界に追い込むのは拝金思想だけではない。社会の仕組みそのものもスピードと効率を追求しているので人はなおさらせき立てられるように計算をしないとやっていけなくなる。
 そしてお金を得るため、仕事を速くするため、生活を便利にするため、人は他人を上手く利用することを覚える。だから人間関係も計算ずくになってくる。
 しかし、そんな計算ばかりしていると、心は当然置いてきぼりにされてしまう。だからストレスが増えるのも当たり前だ。ストレスならまだいいが、計算が狂って人生そのものがおかしなことになる人だって少なくはない。計算を好むのはい自由だが、計算ばかりしている人は最終的に計算そのものの大きな罠にはまると思う。

 テクニックだけでやっている人というのは見るとすぐわかる。どこか人工的で嘘臭いのだ。

 最後に相手を動かすのは、テクニックを超えた力だ。それは相手に向けられる言葉と言葉の間からにじみだしてくるような人間の総合的な力と言うべきものかもしれない。
 その力は、何かの行動を通して相手に伝わることもあるだろうし、豊富な経験から無言のうちに導かれることもあるだろう。

 テクニックというのはたとえ優れたものであっても溺れてはいけないのである。反対にいざとなれば捨ててしまってもいいというくらいの気持ちが大事だ。そういう感覚を持てたとき、人はさらにその上のレベルへ向かっていくことができるのである。

 手を抜くという言葉がある。仕事などでここは力を入れるところだが、あそこは力を入れなくていいと思うとついつい力を抜いてしまうことがある。
 私自身は基本的に、どんな状況でも手を抜くということはしない。興が乗らなくて気持ちが入りづらいということはあっても、少なくともそこで手を抜こうとは考えない。
 というのも、エネルギーというのは出し惜しみしていると、エネルギーが蓄えられるどころか、かえって涸れていく性質を持っているからだ。

 何でもかんでも効率主義や合理主義で動く人がいるとすれば、それはもう病気である。もし自分がモノのように機械的に扱われたくないのであれば、少なくとも人と接するときだけは効率や合理という発想をしないようにすることだ。そしてエネルギーを出し惜しみするなんてことはしないことだ。


(2015.10.7)
なんかね、ものっすごく、共感したわけです。
それで、膨大な数の付せんを本に張りまくった。
その一部(これでも!)を抜粋してみました。
でも共感すればするほど、自身の生き方からは遠いと感じ・・・
読みながら晴れた気持ちは揺り戻しのように重く沈みました。
努力したくないけれど。
努力地獄の中で生きている気がしてなりません。
そして「努力しない」というのは。
実は凡人には「努力する」よりも遥かに難しいのです。


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  • 努力しない生き方  桜井章一
  • 2016年02月18日 (木)

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