Loading…

文人悪食  嵐山光三郎

Posted by 彩月氷香 on 29.2016 その他あ行の作家   0 comments   0 trackback
4101419051
新潮文庫

Amazon

面白い。
作家というものは。
何と業の深い生き物だろう。

食に限らず。
「生きる」ということに貪欲で。
その「食らう」エネルギーに圧倒される。

もっとも、これは嵐山氏の目線ゆえもあるのだろう。
悪どい面がクローズアップされ気味なきらいはある。

それでも。
流布されている作家の印象が大幅に美化されていることも事実。

嵐山氏の筆致が、人物を語るにしても妙に「美味しそう」で。
質感や旨味というものが滴るような描写が愉しい。

たとえば、有島武雄はこのように描かれる。
財に恵まれ、才に恵まれ、容貌に恵まれ、そのうえ偉ぶらない自省の人であり、現在でも、これほど男の条件が揃っている人はちょっと見あたらない。まったくの話、西洋葡萄がよく似あう人物なのである。葡萄色の深い憂愁をたたえ、全身に鮮紅色の液が流れ、視線は透明でとろりと甘い。


本当なのかしら?と疑ってしまう面白い逸話としては。
アメリカでは一番親しまれている俳人は芭蕉でなく山頭火であり、
なかでも「まっすぐな道でさみしい」が好まれ、
「This straight road,full of Loneliness.」
と訳された句を暗唱しているという・・・へぇぇ。

その山頭火はこんなことを言っていたことがあるそうだ。
「自分は与えられる側ではあるけれども、与える先方の者よりも上だという意識がなければならない。さもなくば、本当の意味で『貰う』という事は出来ないものだ。自分が上だと信じていてこそ、初めて経の声もろうろうと出てくるのだ」

著者はそんな山頭火をこう評する。
句がなければただのゴロツキである。日々の生活がすべて句に集約されていくわけだから、句を成立させるためにゴロツキになった。これは放浪者のすべてがそうであり、放浪者は自分勝手である。わがままである。わがままの果ての自我を見定めて、書くから、人々は眩惑され、畏怖し、尊敬する。


志賀直哉に関しては、こんな感じ。
 直哉の小説世界は、日常の嫌悪感に始まって対立と苦悩を生み、解決にいたる。薄気味の悪いガマを照り焼きにして食べたところ、じつはうまくて活力が出た、という話と似ている。(中略)料理を自ら行うものは、食欲への狂気をはらみつつも自省と調和が求められる。なぜならば料理は現実に食うものであるからだ。耽美派谷崎は、食への好奇心と猟奇性においては直哉を凌駕するが、庖丁を持たせれば志賀直哉の方が達人であった。


芥川龍之介は、こんな風。
 芥川の文章は一語一句をゆるがせにしない潔癖性があり、みがきぬかれた文体はきしみあいスックとたちあがっている。しかし、理知的がゆえにダシがきいていない。芥川の指先は味覚を感知しなかった。作家もまた人間であり、食ったほうが強い。鋭利でありながらもろい精神は必然的に自己破滅へむかう。


宮沢賢治に関してもなかなか辛辣で。
 自己分裂している。
 東京にあこがれ、九回も上京しながら、花巻の地方性に執着する。衣服などどうでもいいと言いながら高級なインヴァネスを着る。芸術をめざしつつ純農民になりたがる。生徒にむかって「純粋な百姓のなかから芸術家はできない」と言い放つ。傲慢と自戒が共存している。自己犠牲と奉仕を至上としながらも、他人の親切をうける度量に欠ける。卑下しつつ、他の人の上にたつ。自己を捨てながら自己愛のかたまりだ。ネガティブな自己中心主義者である。
 それらの分裂した自我が、賢治のなかで統一され、賢治文学の魅力となっていくのだが、自虐的粗食は、裏返しの自己愛という意味で美食と裏腹である。もとより貧乏がなせる粗食ではない。


川端康成の描写も面白かった。
この二つの小説が評判になったのは、読者の心のなかにある通俗の願望をうまくすくいあげたためだが、これらの小説を純文芸の位置に高めたのは、恋と苦悩の刃の上を、孤絶した自我が怪しい波をたてながら渡っていくからである。それが康成の真骨頂であり、その奥に透明なニヒリズムがカチカチと音をたてている。それは、孤児として育ち、友人たちに寄宿した康成の精神と無縁ではない。
(*二つの小説というのは「雪国」「伊豆の踊り子」のこと)

これは、檀一雄の章に出てきた言葉。
 料理は人を慰安する。
 素材を煮込んだり、蒸したり、焼いたり、いろいろといじっている混沌の時間は、狂気を押さえつけ、ひたすら内部に鎮静させる力がある。料理に気持ちをこめることは他の欲望をしずめるための手段である。


それから、池波正太郎。清々しい。
 成人して小説家となった池波さんが、おいしい料理を作る職人の気分で小説を書いたことは、ごく自然のなりゆきであった。食べ物のことを書くと、小説は品がなくなりがちである。池波さんにあっては、品がなくなるどころかますますおいしく、よい匂いのする小説を書いた。これは、池波さんが小説を書く好奇心と同じレベルで料理に接していたからである。


最後の章は三島由紀夫。
三島に関する文章はさほど魅力を感じなかった。
なにか、どうにも、著者も「捉え切れていない」印象がある。

しかし、こんなところの描写は好き。
 三島氏は、カチンカチンの「意志」を塗りかためたガラス細工のような視線で、目がピカッと光っていた。

 三島氏は、「虚偽と純粋」をあわせ持っていた人である。人並みなずれた嘘と、人並みはずれた真実を、魔法使いのように使いわけた。じつは、これは料理の手法なのである。三島氏は、知の料理から出発した。


そして文句をつけつつも、最後の一文は私の気持ちと合致した。
しかし、かりに、三島氏が自決せずにすんでいれば、三島氏は谷崎潤一郎をこえる料理小説を書けたはずである。三島氏が華麗な文体と想像力で展開する料理はいかなるものになったであろうか。考えるだけで胸が震える。

うん。読んでみたかった。三島の描く料理小説。

(2016.1.6)
読後に呟いたものが発見されたので、載せておきます。
ツイッターはやめたんじゃないの?と突っ込まれそうですが。
別のアカウントで、月に一度程度つぶやいています。
読書記録用として残そうかどうか悩んでいるところ。

嵐山光三郎「文人悪食」読了。面白過ぎて困った。並み居る文豪達の食欲の旺盛さと我儘ぶりとそれを支える自意識の高さと才能と。生きることを苦しむにも楽しむにも、活力があり余って暴走しているとしか思えないのだけれど。彼らの頭の中で味も磨かれ、あるいは意味付けられ、物語になっていくのだ。

苦手としている作家ほど不思議とその味覚のこだわりや背景にある生い立ち、それによって生じる奇矯なるふるまいが面白く感じられ。幾人かの作家に関しては読み直してみようという気が湧いた。思えば、まだ人生を知らぬ頃に読んだのだもの。今ならば当時感じ取れなかったものが響いてくるかもしれない。

たくさんの作家が取上げられ、ひとりひとりに割くページ数はさほどのものではないのに。密度が濃くて。胃もたれするほどのこってりとした味だった。知っているエピソードもあったのに。それは違う方面から見ていたから。著者の的確な客観的な指摘に今更のように驚いたりもした。

解説で触れられていたけれど。著者の編集者としての目が生きている。作家の目、身内の目では、このように描くことは出来ないだろう。作家のイメージは少々残念なほどに壊される面もあるが。どちらにせよ、物を書く人間の並々ならぬ業の深さに、胸をつかれつつ、しんみりもさせられる。

関連記事


  • password
  • 管理者にだけ表示を許可する

trackbackURL:http://raffiner.blog70.fc2.com/tb.php/2720-0e963f91

プロフィール

Author:彩月氷香

とにかく本が好き
読書感想がメインですが
時々、写真や雑記も。

*初めましてのご挨拶
*ブログタイトルの由来

<別館のご案内>
Instagram
99%、花の写真です。

moleskine絵日記
ちいさな絵日記。

表示中の記事

  • 文人悪食  嵐山光三郎
  • 2016年03月29日 (火)

カテゴリ

最新コメント

データ取得中...

月別アーカイブ

***