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断片的なものの社会学  岸 政彦

Posted by 彩月氷香 on 06.2016 未分類   0 comments   0 trackback
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朝日出版社
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 社会学者として、語りを分析することは、とても大切な仕事だ。しかし、本書では、私がどうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたいと思う。テーマも不統一で、順番もバラバラで、文体やスタイルもでこぼこだが、この世界のいたるところに転がっている無意味な断片について、あるいは、そうした断片が集まってこの世界ができあがっていることについて、そしてさらに、そうした世界で他の誰かとつながることについて、思いつくままに書いていこう。

イントロダクションにある、著者のこの言葉どおり、
「無意味」もしくはそのように片付けられるものが、
丹念に繊細に注意深く、書き記されています。

 どんな人でもいろいろな「語り」をその内側に持っていて、その平凡さや普通さ、その「何事もなさ」に触れるだけで、胸をかきむしられるような気持ちになる。

 ある強烈な体験をして、それを人に伝えようとするとき、私たちは、語りそのものになる。語りが私たちに乗り移り、自分自身を語らせる。私たちはそのとき、語りの乗り物や容れ物になっているのかもしれない。

 四角い紙の本は、それがそのまま、外の世界にむかって開いている四角い窓だ。だからみんな、本さえ読めば、実際には自分の家や街しか知らなくても、ここではないどこかに「外」というものがあって、私たちは自由に扉を開けてどこにでも行くことができるのだ、という感覚を得ることができる。そして私たちは、時がくれば本当に窓や扉を開けて、自分の好きなところに出かけていくのである。

 何ものかになろうとすることは、確かに簡単なことではない。その可能性は限りなくゼロに近い。しかし、どんなにそれがごくわずかでも、そもそも何ものかになろうとしなければ、何ものかになることはできない。何ものかになれるかどうかは、なろうとしたときにはまだ決定されていない。なろうとするまえに、なれるかどうかを知ることはできない。それは賭けである。

 自分のなかには何が入っているのだろう、と思ってのぞきこんでみても、自分のなかには何も、たいしたものは入っていない。ただそこには、いままでの人生でかきあつめてきた断片的ながらくたが、それぞれつながりも、必然性も、あるいは意味さえなく、静かに転がっているだけだ。

 かけがえのない自分、というきれいごとを歌った歌よりも、くだらない自分というものと何とか折り合いをつけなければならないよ、それが人生だよ、という歌がもしあれば、ぜひ聞いてみたい。

 私たちは孤独である。脳の中では、私たちは特に孤独だ。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、脳の中までは遊びにきてくれない。

 いまいるところから離れて、外に出ていく、ということは、強烈な開放感や自由の感覚をもたらすが、また同時に、孤独や不安をともなうことも多い。だから私たちは、たまには帰りたいと思う。帰る場所があるひともいるし、ないひともいるのだが。

 私たちは、出ていって自由になる話と同じくらい、もといた場所に帰る話に惹かれる。

 私たちは私たちの人生に縛りつけられている。私たちは自分の人生をイチから選ぶことができない。なにかとても理不尽ないきさつによって、ある特定の時代の場所に生まれ、さまざまな「不充分さ」をかかえたこの私というものに閉じこめられて、一生を生きるしかない。私たちが生きるしかないこの人生というものは、しばしばとても辛いものである。
 なにかに傷ついたとき、何かに傷つけられたとき、人はまず、黙り込む。ぐっと我慢をして、耐える。あるいは、反射的に怒る。怒鳴ったり、言い返したり、睨んだりする。時には手が出てしまうこともある。
 しかし、笑うこともできる。
 辛いときの反射的な笑いも、当事者によってネタにされた自虐的な笑いも、どちらも私は、人間の自由というもの、そのものだと思う。人間の自由は、無限の可能性や、かけがえのない自己実現などといったお題目とは関係がない。それは、そういう大きな、勇ましい物語のなかにはない。
 少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものである。
 当事者だけとは限らない。言葉というものは、単なる道具ではなく、切れば血が出る。そうした言葉を「受け取ってしまった」人びとも、もはや他人ではない。
 人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということである。

 本人の意思を尊重する、というかたちでの搾取がある。そしてまた、本人を心配する、というかたちでの、おしつけがましい介入がある。

 私たちは神ではない。私たちが手にしていると思っている正しさとは、あくまでも、自分の立場からみた正しさである。これが他者にも通用すると思うのは間違っている。

たくさん、引用しましたが。
読み始めてすぐ、強く惹き付けられました。
ごく普通の人がみな、持っている「語り」。

それを聞き取ることが仕事の著者ですが。
ずかずかと踏み込んではいかない。
とても静かな聞き手なのだと感じます。

こぼれ落ちたもの、どこかに当て嵌めることが出来なかったもの、
それでもそれが尊いのだ、というのでもなく・・・

忘れ難いもの、心にいつまでも残るもの。

意味や値打ちがあるとは思えないような欠片ほど、
妙に愛おしいということはきっと誰でもあると思うのですが・・・

このように言葉に紡ぐことができるのだな。
そっと。やさしく。

居場所のないものに居場所を。
ベンチというほどでもない、小さな背もたれもないような、
そんな椅子をすっと差し出されたかのような。

それでも。その小さな座面でも。
ひととき座って、休憩することができる。
そして、しばし。物思いに耽ることができる。

だから何が変わるというわけでもない。
けれど、憩いの時間を持てたことが有り難い。

・・・そんな本でした。

(2016.2.20)
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  • 2016年04月06日 (水)

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