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羊と鋼の森  宮下奈都

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文藝春秋
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あなたの目指す音は?

本書は主人公が調律師。だから「音」となりますが。
人それぞれ、職業や生き方において、
「音」に代わる何か目指すものがきっとあるでしょう。

でも。それがよくわからない、という人の方がきっと多い。
主人公も同じで、だから敬愛する先輩に訊ねるのです。

先輩は原民喜という作家の文章の一節を語る。

明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体

原民喜はこんな文体に憧れていると書いていて、
「文体」を「音」と捉えれば、まさに理想だ、と。

素養にすぐれているとは言えない主人公。
ピアノが弾けない、クラシックも聴いたことがなかった。
ある日、調律師の調律したピアノの音色に出会い、
その「美しさ」が自らの中の美の記憶を生みなおしたことに、
どうしようもなく惹かれ、導かれて、調律師になる。

ピアノが、どこかに溶けている美しいものを取り出して耳に届く形にできる奇跡だとしたら、僕はよろこんでそのしもべになろう。

その想いを抱いて、彼は「音」を探し続ける。

「音」に正解はない。
ピアノもみな違うし、弾く人も違う。
調律師はピアノの所有者の希望に沿って調律する。

でも「やわらかい音」ってどんな音だろう?
半熟卵のやわらかさか、春の風のやわらかさか、
カケスの卵のやわらかさか・・・

お客様の希望が読み取れたとしても。
そのイメージを具現化するのは容易ではない。

音を揃えるのに手間取り。
それが何とか出来ても「音を決める」ことができない。

「音を決める」

これは何を創るにしても。厳しい一歩だと思う。
料理だったら「味を決める」だし、
文章や絵の場合だったら、何かな・・・
言葉でもない、構図でもない、
やはりそれは「音」か「味」か・・・

原民喜の「文体」が「音」に置き換えられたのだから、
その逆も然りと捉えるなら「文体」なのでしょうが。
「文体を決める」と言ってしまうと何か違う。

文章にも「音」はあるな。今、初めてそう気づく。
どちらかというと「味」で捉えていたけれど。
もしくは「風味」とか「香り」とか「風合い」とか。
でもそれは漂うもの、醸し出されるものであって。
「音」はもっとぴりっとした、「決める」ものだ。

「音の決まらない」文章はある。いや、その方が多い。

高い・低い、柔らかい・硬い、澄んでいる・濁っている・・・
そういう音色の特色だけの問題ではなくて。
音階として奏でた時の、全体の調和の中に「音」がある。

もっと言えば「音」が決まっても、「曲」にはならないかもしれない。
まぁそれはまた、少し違う話になるのかな。

「音」を探す主人公の姿に。
きっと読者は、自分にとっての理想の「音」を想い、
手に届くとは思えない彼方に輝く美しさを思い出すでしょう。

だけど。「音」が自分の中にない、と絶望することはない。

 もしかしたら、この道で間違っていないのかもしれない。時間がかかっても、まわり道になっても、この道を行けばいい。何もないと思っていた森で、なんでもないと思っていた風景の中に、すべてがあったのだと思う。隠されていたのでさえなく、ただ見つけられなかっただけだ。
 安心してよかったのだ。僕にはなにもなくても、美しいものも、音楽も、もともと世界に溶けている。

この物語の終盤の主人公の独白。
心に広がる森の景色に光が差した瞬間。

「音」にいつか辿り着く、その一歩を踏み出した彼を祝福し、
同時に自らも「音」を探すことを諦めまい、
否、諦めずにいていいんだと思わせてくれる・・・

「音」を探す全ての人を優しく励ましてくれる、そんな本です。

(2016.9.1)
この作品はひとことで言うと「優しい」。とてもとても優しい。
その優しさを「甘さ」と取るならば、疵にもなるでしょう。
私はでも。きっとそこが作者の「味」なのだと思います。
それにしても、原民喜の憧れの文体には痺れますね。
読まず嫌いしていた原民喜の作品も、ぜひ読まねば。

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  • 羊と鋼の森  宮下奈都
  • 2016年11月14日 (月)

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