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『俳句の作りよう』高浜虚子

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角川ソフィア文庫
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創作の極意……俳句に限らず。

読んで時間が立ち過ぎてましてね。
感想を書こうとしたら何も思い出せず。
何しろ、半年経ってますから。

ええ。読んですぐ書けばいいのに。後回しにする性格で。
年々、その傾向が強くなっていって(老化?)……
なんと感想が書けてない本が80冊を超えてしまいました。

去年、死ぬ気で頑張って。
50冊溜まったのをやっつけ(!)たのですが。
それがかえって、ヘンな自信になってしまったようです。
50冊分の感想くらい、余裕、余裕、と。

え。いや。違うでしょ。
毎日毎日ノルマみたいに3冊分の感想を書いてしんどかったし。
だいたい、それじゃあ良い記事も書けるわけもなくて。
自己嫌悪に陥ったんじゃないの……忘れたの?

忘れたんです。ハイ。
なにしろ、自分が「頑張れた」ところだけが強く記憶に残り。
「しんどかった」「情けなかった」のところは都合よく消える。

同じようなことは私の日常生活上に散見されます。
いちばんわかりやすい例で言いますと。
私の家から駅まで徒歩8分。
これは公式の時間ですね。

でも実際は。
マンション住まいなので、マンションの玄関までの時間もあるし。
駅についたらすぐ電車に乗れるわけでもない。

結構な階段を昇って改札へたどり着き。
それから、改札を過ぎてホームへまた階段を降りる。
都合、10分はかかると見るのが正確。

さいわい。私は歩くのが速い(足は短いけど!)。
いざとなったら、少し走ることもできます。
となれば、8分でも足りる。

とはいえ。うっかりだか、ぽっかりだか。
間に合わない!という時間に出発することもありますね。
この場合は、そこそこ真剣に走ります。

で、ですね。気がつくわけです。6分あれば間に合う、と。
そうすると。8分で焦らなくなる。
6分あれば大丈夫と思っているから。
余裕を持ち過ぎて。あと5分しかない!という日がやってくる。

諦めますか? いえ。走りますね。
これが。間に合っちゃったりするんです。
死ぬんじゃないかってくらいのしんどさですが。

だいたい、数分早く家を出るだけで。
こんな猛ダッシュの必要はなくなるわけですよ。

しかしですね。私のおバカな脳はこう記憶する。
「いざとなれば5分あれば間に合う」と。
この記憶は消せません。「できた」前例として燦然と輝く。

バカだ、馬鹿だ、アホだ、阿呆過ぎる!

まぁ、言って見れば。すべてがこの調子です。
猛烈に頑張って何とか窮地を脱すると。
二度とこんな苦労はしたくない……と反省するのでなく。

「私にとってこれくらいは窮地ではない」
だから、まだまだ大丈夫、となってしまうのですね。

なんてめでたい性格なのでしょう。アホや。あほすぎる。

で。冒頭へ戻りまして。
50冊分の感想では焦れなくなってしまった私は。
気付くと80冊分も溜めていたわけです。

いや。これはね。さすがにカウントした時、青ざめました。
読んだ本すべての感想を書くというブログ方針を。
いよいよ、捨て去る日が来たと覚悟しました。

80冊はね。書けますよ(内容の精度はともかく)。
問題は書く間も読むことはやめないわけですから。
読むペースと書くペースの差を考えると。
これが100冊になることもあり得るということです。

ぞぞぞぞぞ(鳥肌)。

もっと怖いのは。
80冊の差を埋められたという実績を作り。
次なる段階(100冊?150冊?)へ進むことかもしれない。

もういやだ。これを最後にしたい。
読んだらすぐ、感想を書く人に生まれかわる!(無理でしょう)

あ。本の内容を思い出せないからといって。
思い出せない理由を延々と語ることで誤摩化そうとしてる!

それはナシでしょう!
いや、アリだと思うけど、一回しかできないでしょう!

ええ。さすがにね。今回だけにします。
(ひとことボソっと愚痴るくらいはあるかもしれませんが)

で。こうして長々書く真意はですね。
「それでも私は絶対に方針を曲げません」という決意表明をして。
自分をこれ以上逃げないように追い込むという……

これまた、お得意の作戦ですね。
どうして、こんなに自分を虐めたいんだろうか私。

まぁ。頑張ります。何のためだかよくわからないけど。
思い込んだらやり通す根性だけはあるので頑張ります。

おかげで。近頃、やたらと記事が長いのです。
昔から。余裕がない状態で文章を書くとめちゃめちゃ長くなる。

信じてもらえないかも知れませんが。
こんなおバカな内容であろうとも推敲はしております。
長い方が楽に書けるとか言うのでもありません。

追い詰められると長くしか書けなくなってくるというだけです。
単純に言えば、思考回路が「言い訳モード」になるというか。

やたらとぐだぐだぐだ説明したがったり、過去を振り返ったり、
答えの出ない問いを連発してみたり、悩んでみたり。
脱線癖は元からありますが。それが制御不能になるのです。

でも。開き直ります。開き直るのは得意なので。
読者さま方には誠に申し訳ありませんが。
開き直りパワー全開で。都合良く解釈します。
こういうのもたまには面白いと思う方もいるだろうと。

ほんと、ごめんなさい。
まぁ。毎日はやりませんから(たぶん)。
さすがに自己嫌悪でブログを辞めたくなりそうですから。

昔からの私をご存知な方は。
私の「ワタシワタシ」主義ぶりはご承知ですよね。

ん?「ワタシワタシ主義」ってナンだ?
いや。「オレオレ詐欺」ならぬ「オレオレ主義」ってあるかなって。
もしくは「オレオレ人格」。
語呂からいうと、「オレオレ主義」がぴったり来るんですが。

残念ながら「オレ」っぽい人格でもないんだな、私。
それでも。自覚はちゃんとあるんですよ。
一見そう見えずとも自己主張が無駄に強いという自分の性格。

自信家と真逆ながらに。「私(ワタシ)」力が強い。
自我っていえば。もう少しきれいに響くんだけど。
「オレオレ」とか「ワタシワタシ」っぽい軽薄さがあるのね。

あ。もう。これ以上、自分を追い込むのはやめよう。

で。バタバタ探したら。この本。本棚にありました。
とりあえず。付箋を貼ってあったところを引用します。
これだけ読んでもらっても、内容の雰囲気伝わると思うので。

 新しいということは古いことを十分に研究した上で申すべきことであります。「新」ということは相対のことであります。十分に古いことを研究せねば何が新しいのだか古いのだか判ろうはずがありません。(中略)新しいということは古いものを熟知した上で初めて意味ある言葉となるのであります。

ある建築家の話に、建築が一の様式から他の様式に移るにはおよそ百年を要するということであります。これは面白いことだと思います。すなわち人間のすべての仕事、いわば人間それ自身というものが決して因縁を切り離してものをすることはできないということを十分に考える必要があると思います

文芸のうちで比較的新しい分量を要求している小説のごときものであっても、その実決してそうむやみに新しいものを創造することはできないことであって、たとえ最近の例のようにフランス、ロシアあたりの文芸を急速に輸入してきて、一時は従来の日本人には思いもよらないような新しいものを見せることができたにしても、それは歳月を経るに従ってかえってその「新」という点は退歩してその代わりに従来の日本趣味ともいうべきものが逆襲してきて、大局によりこれをみれば、結局ある徐歩を試みたというに過ぎないことになるのであります。

 近代の俳壇でも正岡子規という人は決して人間を軽蔑しなかった人である。人間社会をくだらないものとして頭から見下ろしておったような人ではなかった。もしあの人にして健康が許すならば、社会の人として働く考えすらも持っておった人であった。かくの如く人生に趣味をもち、尊敬を払っておった人が、病いのためまた自己の文学のために人生を離れた地位に立たねばならなかったわけであるが、その苦には軽薄な跡が少しもみえない。シットリと人を感じさせる点にあっては蕪村よりも子規の方が上であると自分は信ずる。その点においては元禄の芭蕉に次ぐものといってさしつかえないと思う。
 そうして子規以外にも今日の俳人中にはやはり人生を愚にせず、人生に対して相当の熱意をもっておりながら、その半面に超越した世界に遊ぶごとき考えで俳句を作っている人もすくなくない。これらの人の句はどことなく落ち着きがあって、発句が下手にかかわらずなお相当の尊厳を払うにたると思う。

例えば芭蕉の句になるとつまらぬ句も随分沢山ある。しかしながらそのつまらぬというのは表面がつまらぬのであって、その句を通して背後には一種の後光のようなものがある。あたかも仏様の後にある光背のごときものがそこにある。上っ面は平凡な句であるにもかかわらず、何遍も味わってみるとシットリと底の方から味が滲み出してくるごとく感じられるのは、すなわちこの仏様の光背に当たるところで、余はこれを背景のある俳句と呼びたいと思う。この背景のある俳句はいくらたってもその味は失せない。けれども上っ面がチカチカ光っていて、一読して面白いと思われるような句は、長く味わっている中に飽きがくる。

月並の句とこの背景のある句とが往々にして誤られやすきにかかわらず、その間には非常なる相違がなければならぬ。月並の句になると足袋屋の隠居さんとか、床屋の亭主とかいうものが、極めて卑近な考えで人生なり景色なりをみて、その極めて卑近な人生観を土台にして、その人生観を句の上に暴露して句を作る。かくの如きは決して背景ある句というべからざるのみならず、最下等の句といってよいことになる。けれども芭蕉などの句になると、深く考え、深く思ったものが芭蕉の頭に存在していて、芭蕉が発句を作る場合にはその主観というものはたやすく句の上に出てこない。ただ単純なる景色を叙した句であり、単純な人生を詠じた句であってもその考えは一度その頭の奥深くに潜んでいる主観を通じてきたものであることだけが大なる特色であって、そこに独特の光もあり、独特の響きもあるのである。また芭蕉の主観は床屋の親爺などの習慣と違って哲人の主観といってもよいほどのものであるからして、誰がその句を読んでみても、ありふれた小理屈を言ったものとは思うことができない。

芭蕉と子規をベタ褒めですか? いや、そうじゃない。
俳句に限らない創作の極意が書かれていると思います。

まさに。「こうありたい」と思う創作の姿勢と言いますか。
「背景がある」のところはすごく納得する。
「光背」という例えは思いつかなかったな。面白い。

「シットリ」という語が虚子サンのお気に入りらしく。
何度か登場して。ちょっと独特な表現だと感じましたが。
うん。なるほど。それも伝わってくる。わかる。

わかるわかるわかるわかるよ。
作品を味わうというところでは虚子先生に大賛成。

その辺は見分けられると自負しているんだ、実は。
「上っ面がチカチカ光ってる」ものなんかに騙されやしない、と。

一転。自分が創る側に立って読むと。
痛い痛い痛い痛い……やめてやめてやめて……

(蛇足ですが、俳句を詠むわけではありません)

「ありたい」気持ちはちゃんとある。
「あれる」自信は全くもってない。

ていうか「あろう」とすれば「あれる」もの?

(2018.4.2)
俳句、実はかなり好き。
お気に入りの俳句を写したノートがある。
数えてみたら270句でした。虚子も結構入ってます。
せっかくなので一つ。

「うすく澄む水美しや泥の上」


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  • 『俳句の作りよう』高浜虚子
  • 2018年10月15日 (月)

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