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『僕が殺した人と僕を殺した人』東山彰良

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文藝春秋
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少年と少女の違い。

登場人物たちを。
男の子から女の子に変えたら。
たぶん、間違いなく、この物語は成立しない。

そういう意味では私は、少し羨ましいのかもしれない。
でも。その羨望の対象が「友情」というものだとしたら。
それは結局、幸せを生むものでもないとも言える。

思い出は残る。
それは宝というより傷跡としてだったりするけれど。
消そうとして必死になる汚点の場合もあるけれど。
妙に眩しい牧歌的なワンシーンに集約されもするけれど。

「それ」と。再会するというのは。
実は望まない人も多く、実際に二度と会わない人もいる。
私もどちらかというと、かなり会いたくない。

体験していた当時の自分と。
年月を経て振り返る自分は。
同じ人間ということになっているが・・・

残念ながら、違う。違うけれど別人ではない。
似ている他者でもないし、成長の変化でもない。

人間はそんなに変るものではない。
だったら素直に「同じ」か「相似」で良さそうだが。
変らないながらに、「異なる」のだ。

人は変われる、というのと。
人は何があっても変らない、というのとが。
同時に真実であるということ。
それが時として、とても残酷な物語となる。

以下、作中、過去に親友だった者同士に交わされる会話。

「本質が事実より大切だと思ってるの?」
「事実は変えられませんが、事実の背後に隠されている本質にはさまざまな貌があります。それが被害者遺族の慰めになるかもしれません」

哀しいことに、というよりも当然のこととして。
本質なんて見えはしない。
否、語られている通り「さまざまな貌」であって。

貌がいっぱい見えたなら。余計に辛くないか?
その中から好きなのを選べるというのは救いになるか?

それは結局。「ならない」けれど「なる」。
慰めとなるものを、半ば自力で生み出すしかないから。
ないものでも、あることにする。それが人間だ。

あのかびすしい日々のなかで、ぼくは不幸の予感に怯えていただけなんだと気づいた。だからわかるのだが、不幸の予感は不幸そのものよりもずっと手強い。巨大で邪悪で牙が生えている影の正体が、小さくて可愛らしい生き物だということもある。人はどんなことがあろうと楽しく生きていけるものだし、逆にどんなことがあろうと不幸せに生きていくこともできる。

かなり雑な言い方になるが。
人間は二種類に大別できるという見方もできる。
「不幸に生きるのが得意」な人と。
「楽しく生きるのが得意」な人と。

そして、「得意」なことを変えることも出来なくはない。
「得意」「不得意」は案外「思い込み」で作られているから。
どちらを選ぶかを決める、という姿勢の話になるのだとも思う。

もちろん、不幸である自分しか選べない人もいる。

私自身は。振り返ることは「不幸」の原動力になる。
「不幸に生き続ける」ことは、あまりにも容易い。
だから。思い出すことをなるべくしない。
その思い出が楽しかろうとも。輝いていようとも。

さて。
私は当初から、この作品の設定年代を近く感じた。
著者が私と年齢が近いのかと思ったけれど。少し違った。
誤差と言えなくもないけれど、同じ年代ではない。

それでも。やはり、作中の台詞を頼りに計算すると。
登場人物たちと私は、かなり近い年代を過ごしている。

私は時代の流行をとことん無視する方だったから。
あまり、風俗や文化面で時代を共有する感覚がない。
自分より古い時代の方に馴染みを感じたりする。

しかし。新聞を隅々まで熟読する子供だったために。
小中学校時代の社会情勢は異様なほど強く記憶している。
時代の空気を生身でなく、活字で実感していたのだ。

活字的な「時代感覚」は。
妙な具合な「レーダー」となって働く。

生きた時代と無縁であることは絶対に出来ないのだな。
その時代を自分の時代と思ったことが一度とて無くても。
一切、関わらないと頑なに孤立して過ごしたとしても。
同じ時代を生きた人と共通点などないと言い切ってみても。

当たり前のことだけれど。いささか悔しい。
その場所に「属した」ことはなかったと言い張っても。
ちゃんと、その場(時代)の痕跡が自分にある。

意図的にか、生来的にか定かではないが。
「ノスタルジー」を私は皆無と言えるほど持っていない。
(ノスタルジー=過ぎ去った時代を懐かしむ心)

でも。積極的に「懐かしまない」としても。
懐かしいものが現れた時、ドキッとすることはある。

通常は懐かしいであろうものを懐かしがらない私は。
懐かしむ心そのものを敵視しているのかもしれない。

根拠の薄い私見だが。
男性の方が「懐かしむ心」を強く持っているようだ。
女性の方が、昔を語らない。あるいは温存しない。

「懐かしさ」が「今」と直結しやすいのが女性で。
男性は「懐かしさ」で完結できている気がする。
というよりも、現在に繋げることが男性はできない。

ノスタルジーの「純粋さ」という点で。
女は男に負けるような気がするのだ。

結局、女の方が図太いのだ。そうならざるを得ないのだ。
しかし。自分が女であることの実感の薄い私は。
またそれとも少し違っているようで。

まぁ。思い出に対していかに身を処すかなんて。
その時々によるというか、論じてみても戯言だ。

否が応でも対峙しなければならない状況を描けば。
それは安易なほどに「物語」たり得るということ。
そういう意味ではステレオタイプな小説と言える。

ちょっとした仕掛けが利いていること。
語り口の温度の心地よさと。
否定してもできぬ共通する時代の空気と。

それだけかな?

でも。好きだな。
ノスタルジーをノスタルジーだけで完結することを。
著者は拒否している・・・だからかな。

うん。
思い出を美しく。
もしくはセンセーショナルに描くだけなら退屈だ。
読者を楽しませる工夫に満ち、それに成功していたとしても。

描かれた思い出を疑似代験するだけ。
そして、それに触発されて自分の思い出を重ねるだけ。

すでに起きてしまって訂正できない過去、という、
本来、まったく意味がないはずのものに。
意味をつけなければ前に進めない人間に。
優し過ぎる視線を注いでいるのが本書だと思う。

もっと厳しく描くこともできた。
だから「甘い」と糾弾することもできる。

でも。甘さや優しさに癒されてもいいじゃないか。
その優しさが逆に、「救いのない殺人」を、
飾らずに美化せずに言い訳もせずに描き出せたのだから。

仮定を否定して。その否定を否定して。
あるいは、適当に保留して。

「〜かも」と語尾を濁していれば。
それらしいことを言っているような言ってないような。
曖昧な自分を半ば恥じ、半ば開き直り、ひっそり許しを請う。

誰もが許されることを望んでいる。
請わなくても既に許されていることも多いのに。

「自分で自分が許せるかどうか」
最終的にはただ、それだけのことで。

そうとたとえわかっていても簡単に許せない。
あるいは自分を許すことを頑なに認めない。

自分を許してもいいのだと思えなかった、
もしくは自分を許すという発想すらなかった、
それがこの物語の主人公(の一人)だった。

・・・と。
ちょっと格好つけて断定してみる、とりあえず。

(2018.29)
初めましてな作家さんでした。
新聞の書評で見て。タイトルに惹かれて。
もっと読者を突き放したラストでも良かったんだけどな。
その辺の優しさというか、甘さも嫌いではありません。
オーウェルの「1984年」が度々、引用されて。
なんか多いんだよなぁ、近頃。そういえば。
たぶん現実の「1984年」に少年期を過ごした人が。
ちょうど振り返る時期に差し掛かっているせいでしょうか。
苦手な本だけど、そろそろ読みなおしてみようかな。
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読書感想がメインですが
時々、写真や雑記も。

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  • 『僕が殺した人と僕を殺した人』東山彰良
  • 2019年03月04日 (月)

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