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『悪について』中島義道

4004309352
岩波新書
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悪について。

それは、私がずっと心の底に抱え続けている重い石のような想念。
様々な場面で、つんのめるようにその課題にぶつかって立ち止まる。

そんな自分を持て余していた際、そのものズバリのタイトルの、
本書に出会った・・・さて。ここに私を導く答えはあるのか?

結論から言うと、それは無理だった、予測できたことだけど。
だいたい中島義道氏のことも何も知らなかった私は、
この本のなりたちを読み誤っていたのだ。

残虐な事件が起こるたび、その「悪」をめぐる評論が喧しい。しかし、「悪」を指弾する人々自身は、「悪」とはまったく無縁なのだろうか。そもそも人間にとって「悪」とは何なのか。人間の欲望をとことん見据え、この問題に取り組んだのがカントだった。本書では、さまざまな文学作品や宗教書の事例を引きつつ、カント倫理学を「悪」の側面から読み説く。

この紹介文を先に読んでいたら、私はこの本に手を出さなかったかもしれない。
カントは、私がどうしても読み通すことができなかった、数少ない本なのだ。
いや、まったく歯が立たなかったと行った方が正しい。

著者は、何十度と読み続け、読めば読むほどわからなかったカントを
ある日、異国の地、ウィーンで理解したのだそうな。
さほど、カントは難しい。悪を語るにカントとは・・・。

だが、びっくりするほどにスルスルとカントの倫理学が理解できるという、
本書はまるで魔法か手品のような本であった。
もっとも、原本を読解出来なかった私には著者の読みが正しいかどうか、
判別するすべがないのであるが・・・。

昔々、チンプンカンプンのまま意地で繰り返し読んだためか、
私の記憶の中にはカント特有の語法や言い回しが残っており、
それが中島氏のわかりやすい説明と繋がることで、
まるで、もともと自分の力でカントを読みこなしていたかのような、
思い違いも甚だしい勘違いに、いつしか陥っていた。

そのカントが理解できるという驚きに、肝腎の「悪」の考察に
集中できないという事態が起きた。

と、いうよりも。
やはり、カントという希代の哲学者が語る、高次元の「悪」の概念と、
それを全く冷静な視点で読み解いているかというとやや疑問な著者の、
「悪」を分析する文章とは、私の「悪」とは一致しないわけである。

で、ありながら、示唆するところの鋭さと、グサグサと痛いくらいに
私の弱点を突いてくる論旨の展開に哀れな私の頭は翻弄され続けた。

いや、わかりやすすぎるくらい、わかりやすく語られているため、
サクサク読み進んでしまい、あっという間に読了したのだが、
その間に次々と生まれる疑問や、自分自身の問題との比較に、
立ち止まる余裕がなかったのだ。

高速回転する頭脳を持たぬのだからゆっくり読むべきだった、と思う。
とりあえず、気になる箇所に付箋を貼りながら読み進めたのだが、
毎ページ毎ページに、個人的キーワードに出会い、
読み終えたときには貼った付箋が100枚を超えていた・・・。

キーワードを頑張って絞ってみるならば。
「自己愛」「嘘」「意思の自立と他律」。

そう、悪と言うと普通並びそうな、「殺人」「暴力」「強姦」ではないのだ。
哲学とは根本へ、根本へと遡っていくものだから。
カントに至っては、その厳格さゆえ、様々な超人的な決断を、
人間に強いるような事例を幾つも発っしている。

嘘をつくことで救える命(しかも友人の)を犠牲にしてまで、
真実を語る必要があるだろうか・・・?
が、そんな小市民感情で終わってしまうと到達できない境地へと、
本書を読むことで潜っていくことができるのは貴重な体験だった。

そしてまた、取り上げられる文学が、
軒並み私の「ひっかかかり度」の高い本だった。
ドストエフスキー「罪と罰」「白痴」。夏目漱石「こころ」。
これらは、あまりにも私の気持ちを鋭く深くひっかくので、
好き嫌いを越えた因縁を長年抱えている文学なのだ。
はからずも、本書のおかげでその謎がほぼ、解けたのは大きな収穫。

それに関しては長くなりすぎるので非常に申し訳ないが割愛。

区切りがない文章ですが、長すぎるのでこの辺で一時停止。
ここで約半分、まだ読めるという方はお進み下さい。

早い話が、悪について、結局、私は何も考えをまとめられなかった。
本書そのものが、答えを出していない。
最後の最後に「なぜ?」と問い続けることが道徳的である、
と締められてしまうと、少々ガックリ来た。

うん、結局、そこに落ち着くのかと。
そこに至るまでに感動的な盛り上がりがあるとはいえ、
何だか最終的に平凡なオチだったなぁ・・・と。

自己愛が自らに及ぼす害悪、自己犠牲が持つ矛盾、
神の意思という他律に身を任すことの安楽と不道徳、
文化の悪徳、悪への自由・・・ああ、なるほど、と思うことは多々あった。

それにしても、私のなかに巣食うキリスト教的善悪の観念の深さは、
自覚している以上かもしれないと、今回改めて確認させられた。

時々、書物によって、ずっと思いだしたこともない過去が甦るが、
今回は、毎週教会に通った頃の様々な記憶が一気に襲ってきた。
人、もの、場所、言葉、歌・・・。
「愛」を執拗に語るその場所で、私が最も強く抱いた思いが、
「憎しみ」であったという皮肉もまざまざと・・・。

あと、一つ。何故か、宮崎勤。
おそらく、若い方は知らないのだろうな。
今では珍しくも何ともなくなった異常犯罪者の先駆けだった・・・。
当時、何が恐怖だったかと言うと、彼の犯罪そのものよりも、
それに共感できてしまいそうな自分自身だったなぁと。

やれやれ。
結局、自分語りで終わるのか。
そもそも「悪」は普遍的なものであるのか、ある必要があるのか。

ただ、一つ、言える。
「悪」は外にあるものより「内」にあるものが恐ろしい、と。
それも誰にもそうであるとは思わない、私にとってはそうだということ。

他人が自分に為す害悪よりも、自分が自分に為す悪が耐えがたい。
自らの悪に目をつぶって生きて行くことが必然であることが苦しい。
でも、その善ぶった思いが結局「自己愛」に行きつく哀しさ。

本書にも、それは描かれていた。
善であろうとすればするほど、悪から逃れられない人間。
あまりにも厳しい見方だと思うが、それは真実の一端である。

道を外れない平凡な市民として生きているのは、
たまたまな偶然に過ぎないことを私は常に忘れることができない。
悪は、ほんとうに、いつでもすぐそばにある、と思う。
そして、ある時はどう足掻いても避けることができない。

カント式に言うと「道徳的でない」自分。
別に、カントさんの言うことなんて気にしないよ、と呟きながら、
指摘されなくても、自らずっと以前に気付いていたことなのだと、
ほんとうは、はっきりと自覚している。

そして、それが辛いというより、不快であると感じるほどに、
一部の良心が麻痺していることも、意識させられずにはいない。

重い話、になりました。
が、心が沈んではいないのですよ。
もっと深く思索するだけの思考力と時間が欲しいな、とは思います。
若い頃ならば、むやみと自分を責める思考の波に溺れたでしょうが、
さすがに、そんなことをしても益のないことと落ち着き払ってしまうくらい、
人間、歳をとると図太くなるものです。

罪の後で、人はより深く何かを知るのかもしれないな・・・。
激しい、全身をバラバラにされるような混沌の渦の中で。
まぁ、これは本書の主題からはズレますが。

中島氏自体、自分サイドに引きつけてカントを読み解いている部分、
結構ある気がします。そのことに、むしろ私は好感を抱きますが。

さて、でも、いつかは 自分の力でカントを読み解きたいものです。
誤解でもいいから、自分で直に理解できたと思える日を迎えたいな。
・・・ってことは。やはり。繰り返し、繰り返し、我慢強く読むしかないか。

(2010.9.16)
関連記事

私も、育った環境にすでにキリスト教があった、ということ。
自分のものの捉え方、感じ方、考え方に大きな影響力を感じています。
子どもの頃は無意識に親しかったそれらのものと
最近、意識して再会できたということがありました。

この本は未読ですが、このテーマで
ドストエフスキーや夏目漱石が取り上げられるのは、そうだろうなあと。
読んでみたくなりました。

カント、難しいですね。哲学は時間がかかります。。。
2010.09.26 09:05 | URL | はーちゃん #jjURaDtE [edit]
幼い頃に根付いたものは、一生ついて廻りますね。
無意識に親しみ、自然と身に付けた考え方と、
きちんとした場で学ぶのとでは、またキリスト教の姿が違っていて。
その齟齬が大きかったため、反発心もあって。

私の中に育っていたものは、キリスト教に似た、
自分独自の信仰だったのでしょうね、おそらく・・・。

西洋文化を理解する上でキリスト教に親しんでいるのは、
大きな強みでもありますが・・・。
時々、不自由に感じることがあります。

カント、翻訳がマズイのであって原語ならわかりやすい、
とも聞きますが・・・。語学の才能が残念ながら私にはなくて。

諦めず、時間をかけて読みたいとは思っています。


2010.09.26 21:12 | URL | 彩月氷香 #- [edit]
「悪」は外にあるものより「内」にあるものが恐ろしい

文学や哲学談義の際に矢鱈と議題になり易い悪の問題。いつも思うことですが、悪に対する概念を捏ね繰り回すことに然程の意味はなく、大切なのは自己の中に隠れている悪と格闘することのみだと。その意味で、内にある悪が恐ろしいというのはわたしの感覚にとても近いと感じました。

時に悪を思って戦慄するのは、今まで神々しい存在であったものがある境界線を越えると邪悪な気配を帯びてくること。そしてその邪悪な性質が、その存在からではなく自分の側から引き出されたものだという感覚・・・。悪は知らない内にそこにある、それは亦、愛と全く同じように。

この辺で止めときます。いい加減堂々巡りなので・・・。してカントですが、同じく苦手な哲学者であります。判断力批判はまだいけるかなと時に空想したりしますが、それにしても完読できる気がしない。最近光文社から新訳がでてるようですけど、どうなんでしょうね。訳者は高名な学者の方ですけど。
2010.09.29 12:29 | URL | 小泉宗次 #- [edit]
答えが出ないとわかっていても、きっとずっと、問い続ける・・・。
せめてグルグルと一つのところを回り続けるのではないようでありたい。
そのために、様々な視点、を得ることで思索の幅を広げたい。

結局、自分は自分、限られた狭い世界に留まり続けるものだとしても。
無知を誇るのは怠慢だと信じている私は、自分の頭脳で理解できるかどうか怪しいものにも諦めずに挑みたいと思っています・・・ああ、でも、もう少しでいいから、賢く生まれたかった。

いや、そんなことを言っては親に申し訳ないか・・・。
若い時に頭脳をもっと厳しく鍛錬しとくべきだった。いや、そんな過去形で自分の努力不足を言い訳するのも卑怯なことだな。

カントは、どうしても自力で読解したいのですよね。新訳、ちょっとは期待できるかもしれませんね。
2010.09.29 23:18 | URL | 彩月氷香 #- [edit]
「カント式に言うと『道徳的でない』自分。」と仰っていますが、そのことで自問しているあなたは十分道徳的だと私には思えますが‥
2012.09.15 07:50 | URL | 御坊哲 #XpzTPOrY [edit]
もの忘れの良過ぎる頭なもので。
この時「道徳」をどう捉えて「カント式」と表現したのかが、
今となってはわかりません・・・

もの凄く大雑把に言えば、感性の世界に留まっている自分は
理性も意志も欠いているから「道徳」に達していないという、
そんなようなつもりだったのでしょうか。うーん。

おっしゃるように「自問」するという行為は、
道徳につながっているとは思います。
ただカントの言う「道徳」はそれとは違うものに思えました。
それが具体的に説明出来ないのはもどかしく、残念です。

カントが挙げた事例に沿って考えると「道徳」から外れてしまう。
・・・そういう自分の具体的な、とある経験に基づいて、
このような感想を書いたのですね、実は。

それゆえか、今読み返すと過剰に感傷的なのが気になります。
長いグダグダな記事を読んで下さってありがとうございます。
2012.09.15 13:58 | URL | 彩月氷香 #- [edit]


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  • 『悪について』中島義道
  • 2010年09月26日 (日)

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