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お金と引き寄せの法則  エスター・ヒックス ジェリー・ヒックス

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SBクリエイティブ
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自分の願いをまず明らかにすることから。

「富と健康、仕事を引き寄せ成功する究極の方法」という副題ですけれども。内容はそこから想像するほど即物的ではありません。自分が「嫌なこと」に焦点をあわせず、自分が願っている「望ましいこと」に焦点を合わせなさい、ということです。

たとえば、わかりやすい例を挙げますと。
「嫌な気分になりたくない」・・・×
「明るくていい気分になりたい」・・・○

ささやかな違いですが、これが結構響いてくる。

いいことが起こるのを待つ前に、
・まず明るくていい気分を自分で作る
・明るくていい気分になる側面を探して関心を向ける。

プラス思考といえばそうなるかもしれませんが。
ねじ曲げるように明るい方を向こうとするのはダメ。
望む方へ思考を方向づけることを日々意識して。
だんだんと明るくていい気分に変えて行く。

はい。例えをさらに挙げます。
「お金が足りない」・・・×
「もっとお金があったら楽しいだろうな」・・・○

嫌な気分の時は望まないことを引き寄せているという言葉は。
うっ。と胸に詰まるほどに真実な気がします。

いい気分でいよう、と決めて貫くことを決意しました。
ま、実際のところは・・・出来てませんけど(笑)

心がけを積み重ねて行くことは無駄ではないと感じます。
冨も健康も仕事も引き寄せられてはいませんが。
小さな幸運は引き寄せている様子です。

何にせよ自らが「願っていること」を知らねば始まらない。
自分の願望を閉じ込めないことが私の今の課題です。
それは「引き寄せ」とは関係なく、生き方の問題。

もう一度、自分の「願い」と正面から向き合おう。
その決意を支えてくれる役に立ってくれた本です。

(2017.1.13)

読みかけの本について書いてみよう。(保坂和志『試行錯誤に漂う』)

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褒められたことではないが、時折図書館から借りた本を延滞する。読み終えるのが間に合わなかったり、期限の日に体調が悪くて返却できなかったり、読み終えているけれど感想が書けていなかったり、すっかり読みそびれていたり。それは年に一回あるかないかのことだ。回数が少ないからといって褒められることではなく、「読める」と思っている本の冊数に読書ペースが追いつかないことを認めなければと思いつつも「読みたさ」に負けてしまうのだ。

保坂和志『試行錯誤に漂う』は返却日になっても頁を開いてもいなかった。好きなのに滅多に読まない作家というのが私には何人かあるが、保坂和志もその一人。なぜ読まないかというと、一冊読んだ際の充実度が高く、その人の本を読んだという満足感が長く保たれるからだと思う。『カンバセーション・ピース』か『プレーン・ソング』か、どちらが彼との出会いの一冊だったかはもう忘れてしまったが、とにかくその一冊で10年分くらい私は満たされてしまったのだ。

また読みたいと考えてはいるから、古本屋で状態のよい本を見つけるとほくほくして買っておく。それでも読まない。いつかまた読もうと思っているだけで気持ちが「読み終えた時の幸せ」を再生してくれるので読む必要がない。こういう本は、おそらく自分と作品の相性が良く、かつ読むタイミングがベストだったのだと思われる。そして作品との相性が必ずしも作家との相性とイコールではない。他の本を読んでがっかりしたくない思いが意識下にあるため、無意識に読むことを控えるのかもしれない。

実は数ヶ月先の小旅行を計画している私は、旅行の計画を立てることの面倒臭さに嫌気がさして旅行そのものをやめようと考え始めていて、その旅行というのがただ久しぶりに東京をぶらぶらしようというだけのことなので、何をするにも「簡単」にできない性分に泣けてきて不貞寝しようとした時、もう読まずに返却するつもりだった『試行錯誤に漂う』を手にした。読み始めてすぐ、これは「宝庫だな」と思う。何の宝庫かということは定かではない。とにかくこれは「ザクザクだ」と思う。「どんどん湧いてくるな」とも思う。ワクワク感が血管を走るのを感じ、ちょっと困ったなと思う。

自分の不甲斐なさ(旅行の計画が立てられないことだけではない、その背景にある人生全般に関する敗北感)に飽き飽きしていた私にはぴったりの書物で、呼び覚まされるものが続々とあり、簡単には読み進まない。付箋が山盛りに詰めてある箱を傍らに起き、気になる箇所に付箋を貼りつつ読む。貼る作業のおかげで速読自慢の私も速度が出ない。ゆるゆると読む。本に書かれていることからしばしば思考が脱線し、文章が頭を素通りするため、同じところを二度読む。作中に登場する「これは読まねば」という本を読みたい本リストに追加する作業も加わり、記録的なスローペースの読書となる。

読んでいる途中に感想を書くことはほぼ無いのだが、稀にメモをとる必要を感じることがある。本書の場合「もぞもぞと呼び覚まされる」というフレーズを手近な紙に書いた。呼び覚まされるものがナニであり、何故呼び覚まされるかというのが肝心なところだろうけれど、それは読み終えてからでも書けるだろう。「もぞもぞ感」は読み終えた時には消えているかもしれない(読後の満足感に集約されてしまって)から、それだけは記しておかねばと思った。

途中で、とうとう。本を置いた。明らかに貼り過ぎの付箋のうち、横向きに貼ったものだけチェックする。私が付箋を貼るルールは、まずは惜しみなく貼るということ。本一冊につき50カ所を越えることも恐れず、気になる言葉や事象や疑問点や共感の出所となる頁にバンバン貼る。そして、特に重要と思うところは頁の上部ではなく横に貼る。非常に重要と思ったらベージの下に貼る。不思議と下に貼っているものは後に確認すると何故貼ったのかがわからなかったりするのだが、横に貼った付箋は確かに、私にとって大切な言葉が書かれているところだ。

さて。今のところ、横に貼った付箋は3枚。坂口ふみという人の言葉を引用している箇所は絶対に書き写すに違いないが、それはおいておくとして。私がこんな誰の役にも立たない雑文を書いてみようと思ったきっかけの言葉(その場ですぐに響いてきたものではなく、じんわりと働きかけて来た)にも、横向きの付箋が貼られていた。それはこのような文章。

 書くことの起源に読者という想定はない。というか、思えば、起源とか正式にこだわる必要もない。そういうことを言っていると足元を掬われる。ただ書くこと。人を説得しようとか人から了解を得ようなどという気持ちから離れて、ただ書くこと。

実際には職業作家である保坂氏がそのように「書く」ことができるとは信じられない。一般人の私ですらもはや出来ないことだ。けれど、そのように書いていた時代はあったし、今も「書くこと」をそのようなものとして楽しむ(苦しむ)瞬間が皆無ではない。ほんとうにそうであったかどうかはわからないけれどカフカにとって「書く」というのはそういうことだったと保坂氏は言い、それならば私がカフカを好きな理由も納得が行き、さらにそれならば、自分の書くものも好きでいられるだろうと都合のよいことを考える。

考えたから書くのではない。書くことで考える。考えたことをまとめるために書くのではない。書いているうちにまとまってくる、あるいはまとまりもしないままに、どこかへと思考が運ばれて行く。

それが書くことの中毒性だったのだと思い出した。いつまででも書いていられるし、書き続けたいという欲求。それが生まれる源は決して暗黒ではないということも。簡単にいえば、ふと何かのためにではない文章を書いてみたくなったのだ。ただ書きたいから書くという気持ちが懐かしくなったのだ。

それを取り戻したとまでは云えない。けれど、それを失っていた自分には気がつくことができた。何のあても目的も相手もなく尽きることなく書いた時代は、たとえ二度と帰ってこなくても私の黄金期であったのだということにも。

さて。では続きを読もう。

試行錯誤に漂う試行錯誤に漂う
保坂 和志

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黒の過程  マルグリット・ユルスナール

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白水社
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ツイッターをやめて以来、とりあえずの感想を書き留める場所がなくなり。開くことがなくなって久しい日記帳を手にした。以前は毎日なにかしら思うことを書いていたモレスキンのラージサイズ。今は月に数回、断片的な心象風景をほんの数行綴るくらいで、場合によると数ヶ月まったく書き込みがなかったりする。

この本を読み終えた時、感じたことを消えないうちに記さねばと思った。読み終えた端から忘れて行く想いというものは「感動」というより、自分の中に眠っていたものの再発見に近く、その懐かしさを留めておきたいという願いの要素が色濃い。私が惹かれるものは大抵、久しぶりに対面する自分自身の内面のうちの「とある面」である。そしてそれは恐ろしい。見つめることを拒否したくなる。

ただ。たまたまなのかもしれないけれど。日本人の作家の作品の場合、見たくないものを見るように強要されるかのように感じ、海外の作家の作品の場合は見ることを愉しむ余裕が持てるような気がする。文化的、郷土的に近すぎないのが良いのだろうか。明確に分けられるものでもないけれど、翻訳文学の方が胸に迫ってくるものの質感が快い傾向にある。

わからない部分があることが救いになるのだろう。そして、わからないことを当然だと思えることが心の余裕になるのだろう。わかると思えるところだけを部分的にわかるというのは都合の良い読み方かもしれないが、憧れと不可解を含んだ親しみというのは、精神を研ぎ澄ませつつも安らがせてくれ、さらに余白を味わう時間も与えてくれる。

さて。日記に書かれていた感想を読み返してみると、呆気ない程あっさりしていた。自分が書いたのに数ヶ月後の今になると意味がよくわからない部分がある。

ユルスナール「黒の過程」読了。
懐かしさのようなものが読む時間を満たしていた。主人公のゼノンを私が理解したとは云えない。血塗られた歴史の中に浮かびあがる宗教、否キリスト教の偽善、傲慢。しかし、強い存在感。“孤”という言葉が相応しく、全体を覆う静けさがまるで青い炎のようだった。目には熱くない。触れ得ぬ高温。訳者あとがきすらも、一篇の美しい物語となっている。

「目に熱くない」というのが不明瞭な例えだ。私は作品の温度を測りかねつつ読んでいた。ユルスナールの視線は人間を突き放していて、けれど距離は遠くはなく、密接した客観性が怖いような迫力を持っている。そのことを「青い炎」と捉えたのだろう。

冷たさと熱さを同時に内包している、と表現してしまうとそれも実感とは異なる。冷たくはない。熱くもない。温度を感じない作風というものもあるがそれとも違う。熱を感知しないのに、「炎」が見える・・・というのがまだ近い。

キリスト教が勢力を持っている社会を体感できなければ、わからないはずの苦悩にも思えるけれど。たぶん。結局のところは宗教や時代が違っても、自分を見つめ続けて生きずにはいられない者には「わかる」痛みなのだ。一方で極めつけの「俗物」として描かれている脇役たちにも、自分の分身をみつけることは可能だ。

私はあまり「抑えた」「冷静な」「理知的な」文章を好まないという自覚がある。「理」よりも遥かに「情」が勝っている性質の人間だからだと思う。そんな私になぜかユルスナールの文章はこの上なく好ましい。抑制は利いているが、華やかさがある。繊細だが脆くはなく、骨が固い。知力の高さがひしひしと伝わってくるのに、頭の出来が甘い私も拒絶されない。

(2017.1.25)
須賀敦子がユルスナールについて書いた文章の中に「文章の品位と思考の強靭さ」とあった。品位という言葉は思い浮かんだけれど「思考の強靭さ」という表現はさすが。私はユルスナールから受ける印象の「強さ」をどう言い表せば良いかわからなかったのに・・・
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雪と珊瑚と  梨木香歩

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角川書店
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避けることができない。逃げることもできない。

若いシングルマザー
スローフードな総菜屋兼カフェ
パン屋さんのアルバイト
浮世離れしたオールドレディ

本書の内容をキーワード的にピックアップするといかにも現代的で、少女趣味にも見受けられる。主人公が子供をまったく愛せない母親に育てられた過去を持つという要素が加わり、その印象は一層濃くなる。

だが、ふんわりお伽噺めいた空気の中に、ぎらりと光る鋭い人間観察がある。ああ、見たくない!と呻いてしまうような。やめて!と耳を塞ぎたくなるような。

優しく穏やかな海の、ずっとずっと深いところには、目も退化してしまった巨大な深海魚が大きく口を開けて構えている・・・そんな感じのひたひたと重く静かな怖さがある。

いやいや。もっと鋭く刺さる痛みだ。
いやいやいや、ズキズキとした深く長く続く鈍痛だ。

その痛みは表情が一定しない。感じる側の揺らぎに呼応しているのだろう。痛みの元は自らの中にあり、その自らというのは詳しく言うと「認めたくない自分」である。臆病さか、頑さか、偽りか、驕りか・・・いずれにせよ、自分が「持っている」と知りつつも直視せぬように日々心掛けているものたちだ。

理解出来ない、したくない、融和出来ない、関わりたくない、そんな他者をただ単純に憎めたなら。もしくは視界や脳から徹底的に排除できたら、人生はどんなに楽になるだろう。それができないことが人間の苦悩のうちでも最も大きなものなのではないか。

私自身、人生の大半を少数派として生きてきた。その点が主人公の珊瑚と似ている。「理解されないこと」「孤立すること」をほぼ恐れないところも。

しかし、そうであっても。他者への依存はゼロではない。周囲に打ち解ける努力をしない人間だからこその「目立たない甘え」がある。甘える対象が限定されているし、本人に甘えているという意識が薄い面もある。客観的にも気付く人の少ない「甘え」だ。だが、それを察知する人には激しく憎まれる。

だから主人公に強い「嫌悪感」をぶつけてきたアルバイトの同僚の存在は私にとって自らの現実のように生々しかった。理不尽だと感じながらも、その憎しみが「わかる」のだ。

人と人との関係には結局のところ是も非もない。客観的に見て、どちらかが「正しそう」だという判断はできるが、そのことが当事者を救いはしない。

テーマは、おそらく、ここにある。
娘の育児を放棄した母親を「悪人」と呼ぶことは簡単だが、その母は「母」としてだけ生きているわけではない。娘にとっては承服しかねる事実を、でも主人公は受け入れようとしている・・・のだろうか?

疑問形になるのは。まだ彼女が闘い続けているから。でも。そうすること、そうできることが「希望」なのだと暗示されていると感じた。

(2017.1.31)
「痛み」ばかりを取り上げましたが、「ああ近くにこんなカフェがあったらいいな」「こんな老女になれたらいいな」「わぁ美味しそうな料理だな!」という癒し要素もたっぷりあります。惣菜メニューの命名シーンがほのぼのします。

勝つ人間の「見切る」技術  桜井章一

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サンマーク出版
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ものごとをシンプルにする「見極め」、前向きな決断。

見切るとは、上記のようなことだと桜井氏は言います。
私は「シンプル」という言葉に食傷気味で、「しょせん人間はややこしくてナンボやろ」と開き直りかけている最中だったりしますけれど。

一方で「選択肢がたくさんあって自由に選べるしんどさ」に疲れ果て、選択肢を減らしたいという願望を強く持っているのも事実。

「目の前に現れる一見数の多い選択肢をスパッと切り捨てることが欠かせない」という著者の言にはブンブン首を縦振りいたしますが。その「見切り」の基準、胆力、判断力はどこから生まれるもんなんでしょう?

・氾濫する情報から生まれる選択肢の誘いに乗らない
・自分の“本心”が何を欲しているかを問う


ごもっともでございます。そうありたいと願い、心掛けております。結果、「立ち止まる」場面が多過ぎていっこうに前へ進みません。

自分に問いかけると「うーん。ちょっと待ってね。今、考えてるから。えーっと。まだ悩んでるから。あのね・・・もうちょっと時間ちょうだい、決断できないから」という返事が返って来ます。おい、はよせんかーい!

悩める私に心強い提言を本書の中からみつけました。

目の前に選択肢がいくつもあって迷い捨て切れないというときは、違和感のあるものから外していく。残ったものが正解である確立が高い。感覚で判断するのは、明確にこれだという確信はないが無理がない。

実は私もこの方式で長年「選ぶ」ということをしてきたのですが。違和感のあるものがそもそも多過ぎ、そんな自分に疲れ、悩み。反動で違和感に対して「甘く」なってしまっていました。「このぐらいは許容範囲」と。

違和感に素直に従えば、ビシバシ「見切る」ことができるかも!

しかし。「違和感レーダー」が有能だとしても。選択肢が過剰であれば、振り分けるのに物理的に時間が必要。だから桜井氏はおっしゃるわけですね。「情報は少なければ少ないほどいい」と。

情報の摂取量を減らすことは、現代においてはよほど意識しないと難しく。どうやって質の良い情報を適度な量だけ取込めるかというのは、近年の私の課題になっていますが、「本を読まない」という桜井氏を参考にするわけにはいきませんので、別の機会に。

見切りを重ね、シンプルに削っていって「あ、残ったな」という数少ないものが「自分」である。余計なものを前向きに見切っていくことで等身大の「自分」を初めて見出すのである。

あきらめることで達する余裕ある心持ち。そんな人は何か行動をしなくても、じっと座っているだけで粋な気配がふんわり漂ってくるものだ。そんな粋な香りを嗅ごうにもどこにも見つからない社会はちょっと寂しい。

等身大の自分とかいうものには、正直憧れませんが。ええ、なんだかんだいっても「ええかっこしい」の精神は捨てませんが。「粋な人」にはなりたい。なってみせます。えっと・・・死ぬまでには。

締めくくりの一文が素敵でしたので、引用します。

 見切り、あきらめるということは、何かを終わりにすることだ。だが、この終わりはまさしく始まりでもある。終わりの合図とともに確実に新しいものへのスタートは切られる。終わりを何でも始まりに変えてしまえば、人生はもっと前向きなものになるだろう。たとえば失敗だってただの終わりではなく、成功の始まりになる可能性を孕んでいるのである。

 もし、あなたが見切ることになかなか踏ん切りがつかなければ、そのことを「ジ・エンド」と思っているからだ。見切るとは新しい何かを始めること。その始まりに希望と可能性を見出せば、見切ることはそう難しいことでないかもしれない。

 仕方なしに見切らざるをえなかった場合でも、「ああ、ここから新しいことが始められるんだ」と気持ちを切り替えていけばいい。そうすれば、「悔しい」とか「残念だ」と言ってうなだれる暇などないだろう。

 もし「終わり」に心が暗く覆われることがあれば、その霧を払いのけ、始まりと終わりが果てしなく連なっている大きな円をぼんやりとでも感じてみることである。そこから希望の光はきっと刺してくるだろう。

ちなみに著者の桜井章一氏は、雀鬼(ジャンキ)というあだ名を持つ、二十年間無敗の伝説を持つ雀士。さすが、常識的な考え方からは外れていらして、妻となる人を選んだ経緯などは殊に面白い。

 (2017.1.4)
「見切る」「諦める」なかで、「諦めない」「諦められない」ものが見えてくるのでしょう。努力も才能も限度があるなかで、自分のそれを精一杯注げるものを見つけて生きたいと願う私にとって、「見切る」ことは必要だと実感します。そのために「感じる」ことにもっと焦点を合わせていきたいと思っています。
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世界のかわいい編み物

2017.03.02 手芸   comments 0
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誠文堂新光社
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ああ。この渋い可愛さ。手仕事の美しさ。

いいな。いいな。編み物、好きです。
幼い頃、母がセーターを編んでくれていて。
ううん、大人になっても何枚か編んでもらったな。

この本に載っているような「伝統工芸」レベルではありませんが。
お店で売ることができるくらいの「セミプロ」の腕前でした。
母の編んでくれたセーターを来るのは誇らしかったのものです。

さてさて。私の思い出話はさておき。
「世界各地で伝承され、作られたニットの歴史、特徴、編み方」
と副題にあります本書は実は「編み方」は載っていません。

眺めて楽しむ。
読んで楽しむ。
そして空想して楽しむ。

うん。いつかはこんなの編みたいなーって。
私の好きな物は以下のものたち。

サンカ手袋
シェトランドシープ
フェアアイルニット
マリアンネ・イーサーガ
フランスのレースグローブ

ああ。特に、サンカ手袋、憧れるなぁ。
もしかしたら。いつかは編めるかも???

(2017.2.1)

続けて行く決意。

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とうとう、このブログも今日で7歳。
通って下さっている方はご存知の通り、私も一つ歳を重ねます。
なにしろ、誕生日にスタートしたブログですので。

私の年齢は伏せておきますが。
積極的に隠してもいないので、推測は可能でしょう。
あ。聞かれても答えませんよ!(笑)

長かったような。短かったような7年。
今までに、何度もやめようと考えました。
辞めたくなった理由はその時々により少しずつ異なり。
平たくいえば、いずれにせよ「心の問題」でした。

ところが一昨年、事件と呼べる事態からの失職と再就職で。
「時間の不足」という新たな危機が発生しました。

このブログはそもそも「暇すぎる」という理由で始め。
時間だけはたっぷりあることが私の強みだったのに・・・

仕事に時間も精神力も体力も奪われて。
やりたいことが出来ず、不満と失望と諦めとヤケに囚われ。
「疲れた」「しんどい」「もう嫌」が口癖になりました。

でも。「ブログ」はやめなかった。
やめてもいいやと何度も思ったのに、やめなかった。

読者数、アクセス数は減り続けているけれど。
強がりではなく、今は本当にそのことが気にならない。

読んで下さる人は少ないけれど。
丁寧に読んでくれているように思います。
それが気のせいではないことを知る機会にも恵まれました。

昔。私が他人には理解されないだろうと思って書いた言葉を、
「素晴らしい!」と激賞して下さった先生がいました。
あの時の喜びはどれほど日が経っても褪せません。

私は、先生だけが特別な例外だと思い込みましたが。
わかってくれた人は他にもいたかもしれないと今は思います。

どちらにせよ私は。誰かの理解や共感を得ることはなくても。
思ったことは「書きたい」人間なのです。

感情を吐き出すように書くのはあまり好きではなくて。
意見を述べるというのもやはり性には合わない。
あるようなないような「自分の考え」を、
自分の心の中から見つけ出して、整理して・・・
「あ、そうだったんだ!」と腑に落ちる瞬間が好き。

読んでくれる人がたとえいなくても「書く」「書きたい」。
そのくらい「書きたい」ことが「本物」なのだと思う。

私が文章の出来不出来は別として、
「書けた」と感じることができるのは。
そういう「書かずにはいられない」何かを見つけて、
「書き表せない」もどかしさにメゲズに「書いた」時。

語彙不足・才能不足に泣きそうになりながらも踏ん張り。
自分の頭のなかの言葉を精一杯、かき集めて書いた時。

足りないのは「言葉」だけではないんだな。
頭と心の体力というか、センスというか、経験値というか。
それでも。「不足」を認めつつも、書く。
そのしんどさのなかに、楽しさがある。

「自分自身との対話」でありながら。
「読んでくれているかもしれない誰か」に向けての言葉。

読む人が何を感じながら読むかはわからない。
感じて欲しいことや、伝えたいことがあるわけではない。
でも、何かが伝わったということを知るのは何より嬉しい。

私の言葉が通じる(それは奇跡だと思いました)先生の存在は、
文章を書く私の気持ちを強く支えてくれました。
だからと言って、書く内容までもが変わるわけではない。

違ったのは「本気度」です。

自分の能力の範囲でではあるけれど「妥協しない」ということ。
その気概を与えてくれた、大好きな先生でした。
「ほんとうに思っていること」を書く勇気も与えてくれました。

今、あの時の気持ちを思い出しながら書いています。

いつも全力の本気、というわけにはいきませんが。
私の文章を嬉しそうに弾んだ声で読んで下さった先生のように
素敵な「同族」の読者さんがいることを忘れることなく・・・
「私」の言葉を紡いでいけたらと思います。

「上手く」というより、「素直に」。
ただ素材のままという意味での素直ではなくて。
シンプルだけれど、香辛料も程よく効いたお料理のように。
自分の好きな味付けの、何度も食べたい一品みたいに。

コンビニ・ファミレス・ファストフード味は避けたい。
でも家庭料理ともすこし違う気がするし。
何だろうな、私の目指している味って。

やはり「ひと味違う」隠し味は持ちたい。

以下、今までの「誕生日記念記事」のリンクです。
未読かつ、ご興味のある方、かつ暇のある方はどうぞ。


2011年(1周年)「ダブル・バースデー その2~ブログ一周年」
2012年(2周年)「そして月日は巡る」
2013年(3周年)「気づけば、ブログ3周年」 
2014年(4周年)「ぶつくさ言いながら、4周年」
2015年(5周年)「とうとう5周年。ありがとうございます。」
2016年(6周年)「あ。そういえば誕生日だった・・・」

以前も書きましたが。2012年の記事が気に入っています。
笑えることに、ほぼ今日と同じことを書いています。
いえ、毎年毎年、内容は似たようなものです。

来年は違うことを書けたらいいなと少し、思います。
でも。こうして変わらぬ想いを持ち続けられるのも幸せなこと。
いつも読んで下さる方も、初めての方もありがとうございます。

私は読むことが書くことよりも好きなくらいなので。
「読む力」ということを強く感じます。
ううん、「読み手の存在の力」・・・かな。

ふふ。もう長くなるし、上手くは言えませんが。
「読み手」はもっと、どうぞ威張って下さいね。
「読む」ってほんとうに実は凄いことです。

  

プロフィール

Author:彩月氷香

とにかく本が好き
読書感想がメインですが
時々、写真や雑記も。

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*ブログタイトルの由来

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