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『本棚の本』赤澤かおり

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「ものづくり」する人の本棚

本棚を紹介した本って興奮しますね。

本の体裁がどうであれ。
紹介される本の持主が誰であれ。
本棚を撮影するカメラマンが誰であれ。
本棚を訪問して記事を書く人が誰であれ。

そこに誰かの本棚がある!
それを覗き見できる!

それだけでテンションが異常に上がります。

本書に取上げられる本棚の主たちは。
シェフやデザイナー、料理家、スタイリスト、
イラストレーター、フードコーディネイター、
カフェの店主、酒屋の店主、フローリストなど。

文学畑の人ではなくて。
クリエイター畑の方々。
本(文章メインの)に直結してない職業の人たち。

や。これ。面白いわ。

やはりビジュアル系(音楽じゃないよ)の本多し。
好きなんだよね。こっち方面も。
読むより眺めるっていうタイプの本。

うずうずします。

おしゃれな料理本とか。
雑誌も大好き。写真集も。

読む愉しみに負けないくらい。
見る愉しみに魅力を感じます。

文庫本より単行本が好きなのも。
本の姿やデザインを愛でられるから。

とにかく。
紹介される本が異色だわ。
それでいてチラホラ私の愛読書が混じってる。

そっか。
私も意外とこっち側(ってどこさ?)の人なんだー、と感じた。

まぁ。混じってる人も多いと思うんですけれど。
ていうか重なる部分もあるわけですけれど。
美術畑と文学畑は興味の範囲が違うのね。

違うっていうより。
守備範囲の広げ方のモンダイかな。

文章を書いてる人の本棚より。
ある意味、楽しいなー。
(正確に言えば、文章書いてる人もいます)

本から得ようと思っているものが違うかな。
いや。そういうと語弊あるけれど。

活字狂よりも。なんか自由な印象。
活字の方が重いだろ、っていうとそうとも言い切れず。
ある種のビジュアル本の衝撃も心を圧倒するのだけれど。

その感動を響かせる場所が違うような気がする。

まぁそれにしたってなんだって。
魂を震わせるものに出会っている人の本棚はいいよね。
そもそも、そうでない人は本棚なんて必要ないだろうけど。

いや。
自分のイメージ戦略公開の場として本棚作る人もいるけど。
それはまた、別の話。

職業的に本が必要な人間よりも。
本を持つことの必然性が薄いの人の本棚は。
もの凄く純粋にその人の「大切」な本だけが詰まってる。

そんな感じがした。この本を読んで。
そう。なぜか文章が多いんだな、この本。
だから「眺める」より「読む」時間が長かった。

著者の親しい人の本棚が多くて。
本棚の持主の紹介がやたら丁寧で。

それは。そうしないと、「それ、誰?」になる面もあり。
でも。有名人の本棚じゃないからツマラナイってのはなく。

本棚の主の紹介の文章が楽しい。
すっごく個人的な話なところが好きだ。
主を語りつつ、著者の自分語りがちゃっかり混じるところも。

赤澤さんて人も。本棚の覗き趣味があるヘンタイで。
(わー。ごめんなさい!でも本人も認めてる)
本棚訪問にワクワク・ドキドキしていて。

少し、怖かったりもするんだよね。
「見せてもらう」のが。
「見せてもいいよ」って信頼を得た嬉しさとともに。

見せる方としては。やっぱり恥ずかしいかな。
照れというか面映いというか。

それでも。
「本棚を見せて」と言われて。
「いいよ」と言える人でありたいな。

それは本棚の内容が知的だとか高貴だとかではなく。
ちゃんと。そのような本棚になったことを説明できるような。
本と自分のつながりを自他共に納得させられるような。

あ。意外性はいいんですよ。大歓迎。
それも含みながらの、要は愛情が感じられる本棚であれば。
きっと見せることが面映いながらも、見せられる。

(2018.9.17)
本に対する執着の少ない本棚の持主もいて。
すると。本の量はかなり少なかったりして。
でも淘汰した後に残った分、濃い本棚に感じる。
もしくは、さらりといい軽さの本棚であったり。
大きな本棚より。小さな本棚の方が面白いかも。
やみくもに読むことも、やみくもに揃えることもしない。
そのことで均一化されず、豊かな凸凹が生まれる。
本ばかり、読んでもいられないしね。
本よりも大切なものがある人の方が。
持っている本をすごく大切にしている気もする。
最後に残念なことをひとつ。
文字も写真も小さ過ぎる!ルーペが必要!

そして、ひと月が過ぎ。

父が突然この世を去ってから。

長くて。長くて。
なのに振り返ると短い。
妙に淡々と静かな日々を送っていました。

何日も何日も眠れず。
今も通常通りの睡眠は取れません。

それでも。
普通に仕事に行き。
普通に食べ、お風呂に入り、買い物へ行き。

というよりも。
そういう日常の最低限以外、何もしていないのか。

常に。精一杯な感じがする。
ある意味、切実に生きている感じがする。

テレビも二週間は見る気が起きなかったけれど。
今は、お気に入りの番組だけは観ます。

別に泣き暮らしているわけでもない。
物も喉を通らないとまではいかない。

まぁ、食欲はないのだけれど。
食べなきゃと頑張って、一応食べてはいる。

掃除も洗濯も買い物も怠らず。
それどころか、毎日毎日片付けをして。

そうだ。
時間がありさえすれば。片づけていたのだ。

ゴミ捨てが重要行事となるほどに。
どんどんとゴミが出て。
なのにまだ。毎日処分できるものを探している。

父の不在にいつまでも慣れない。
いいえ。少しは慣れてきて。
でもそれは。いつか帰ってくるような気がしているからで。

時々。突発的に。
もう父は二度と帰って来ないのだ、と。
今さらにも今さらな事実に打たれて衝撃を受け。

しつこくしつこく。その事実を反芻し。
なのに。噛んでも噛んでも消化しない。

自分に言い聞かせるように。
もうお父さんは帰って来ないんだよ。
絶対に帰って来ないんだよ、と。

繰り返し繰り返し。
言葉というよりは強い強い念を体内に響かせるがごとく。
気がつくと、いつまでもいつまでも唱え続けている。

本は一冊だけ読みました。貧乏性なもので。
図書館の返却期限までになんとか読んでしまおうと。
返す数日前になって、宿題のように読み始めた本。

深緑野分『ベルリンは晴れているか』

辛い読書だった。
今、読むべき本ではなかった。

あ。感想は。また。いつか。
ひとことで言うなら。
大切な人がどんどん死んでいく話。
生き残った自分の生の正当性を疑いつつ生きていく話。

あ。違うかな。そう読めてしまうんだね、今は。

戦争を生き残ることが過酷だった、というところが。
すごくすごくよく描けていると思ったの。
そして。私たちはその戦争を生き残った人々の子孫なんだ、って。

生きのこらなかった人の子孫もいるのだけれど。
ていうか、それは私もちょっと該当するのだけれど。
その話は、また、本の感想が書けるようになった時に。

さて。
眠れなさに拍車がかかるくらい悩んで。
大きな大きな決断(私にとっては)を下したのだけれど。
その実現への道のりを思うと、時が止まる。

父が帰らないことを思うときも、時は止まる。
何か懐かしすぎることを思い出しても、時は止まる。

いま私の時間は、頻繁に停止する。

ブログを再開することは。時を動かすだろうか。
でも。やっぱり。キーボードに向かうと時が止まる。

動作や思考が固まるというのとは。似ているようで違うのだ。
虚しさ、というのともまたちょっと違う。
うまく言えない。

時が停止すると。
自分の人生が少し縮んだように感じる。
正確に言うと。停止した時間から戻ってきた時、それを感知する。

崩れてはいかないのだ。
縮むというより、齧られたという風な。
違う、一部、塗り固めたような。
違う違う。

自分の中に。
通行止の道が一つ、増えたような。
死んだのではなくて。消えたのでもなくて。
そこへは辿り着けない、そんな場所が生まれたような。

私自身のなかに。
もう二度と訪れることのできない部屋があるような。

けれど。閉ざされた道が増えるほどにむしろ。
可能性は広がるのかもしれない。

だから。敢えて。加速させるように。
自ら、扉のあるところは二度と開かぬように閉じながら。
歩き回っているような、そんな気もする。

今日が父の月命日でした。

明日から。ブログ再開いたします。
溜め込んだ記事を吐き出すというのが正しいかも。
書いてから随分と日が過ぎているものばかり。

通常はそれでも手直ししながら公開するのですが。
その手間は省略することになりそうです。

週に一度くらい休みつつ、ほぼ毎日アップする予定。
となると5月で記事は在庫切れとなります。

今のところはいちおう。たぶんですが。
まだ書けていない2018年に読んだ本の感想は書くつもりでいます。

それでまた、二ヶ月ほど延命することになりますが。
それから先のことはわかりません。

ひとつ確かなことがあります。
今までのように、もう本は読まないでしょう。
いいえ。読めないでしょう。

だから。ブログを続けていくにしても。
今までのようにはいかないということだけは間違いありません。

どこかに「きちんと締めくくりたい」という気持ちが生まれかけ。
それに被さるように「でも続けよう」という反論の声があります。

現実上のある問題が決着するまでは。
答えは出ないのだろうと思っています。

長くなりましたが。
常連の訪問者さまへの感謝と、再開のご挨拶とさせて頂きます。

お礼とお詫びと思い出と未来。

先日の。父の訃報記事に。
お悔やみの言葉、ありがとうございます。

ほんとうは個別にお返事すべきなのですが。
ここで、お声かけてくださった皆様にお礼申し上げます。

経験した人ならば、ご存知かと思いますが。
世帯主を予測もなく突然に失った家庭は。
兎にも角にも、手続きが山のようにあります。

私の忌引きは5日しかなくて。
(それでもあるだけで有難い世の中とも思いますが)
その間に、通夜とお葬式と最低限の事務手続きをして。

仕事に復帰してからも。
暇さえあれば、電話、電話、電話。
夜も朝も、書類、書類、書類。

休日は市役所。
これがうまく一度で済まず、もう5回は行きました。

あとは。
父がしてくれていた家事と買い物。
母ができないわけではないのですが。
そして、もちろん、人並み以上にしてくれているのですが。

母は足が悪いので。
無理をさせてはいけないのです。
だから父がいつも車の運転をして母と買い物へ行っていました。

私。ペーパードライバーではないのですが。
車の運転はどちらかというと苦手。
そんなこと言ってられなくて。
ここ半月、今までになく車のハンドルを握りました。

まぁ。この歳でも。乗れば慣れるものですね。
狭過ぎてイヤと敬遠していた道や駐車場も平気になりました。

つくづくと。
父に。ずっと甘えていたんだな、私。

ホントは私が運転して、父を乗せてあげなきゃいけなかったのに。
母だけでなく、私もよく送ってくれたり向かえに来てくれて。

ゴミ捨てと、掃除機かけと、新聞を取りに行くのと。
あと、お風呂洗いもよく、やってくれていた。
書類が必要な手続きは皆、コツコツとしてくれていた。

洗濯物を干したり、取り込んだりも。
とにかく、家族のために何かすることを優先していた。
嫌な顔をしたことが一度もない。

母が今日は自分で歩いて買い物へ行く、と言うと。
じゃあ、迎えに行く、と。
時間をおいて、自転車か車で迎えに行っていた。

毎朝、必ず、コーヒーを私の分も淹れてくれた。
私が予定より早く出掛けるような日は。
「コーヒー今から淹れるけれど、飲む時間ある?」と確認してくれた。
私の外出に合わせて、早めにコーヒーを淹れてくれたりした。

私と母が出かけて父だけ留守番の日も時々あったけれど。
そんな時は、いつもレンジでチンするチャーハンを食べていた。
それが不満というのでもなくて。ニコニコと笑顔で。
「じゃあ、おとうさん、あれ食べとく」といつも言っていた。

一人で家でのんびりしてるのも好きだったと思う。
何かをしなきゃとか、何かをしたいとか、何かが欲しいとか。
自分を縛る義務や欲が、驚くほど無い人だった。

そこが、物足りないなぁって私は感じていた。
不思議だなぁ、理解できないなぁとも思っていた。

ただ。訃報を知らせた父の友人が言ってくださったように。
「いつも幸せそう」だった、のが父という人で。
何も特別なことがなくても、普通の毎日を幸せに過ごせる人だった。

競馬と数独が好きだった。テレビでのスポーツ観戦も。
煙草も好きで、少しずつ減らしてはいたけれど。
禁煙なんて、ただの一度もしたことがなかった。
コーヒーは毎日、必ず朝、自分で淹れて飲んだ。
その時、絶対、柿ピーを小皿に出して添えてつまんでいた。

新しいことは特に好きではなくて。
いつもと同じ、がいいという人だった。
決まったペース、決まった銘柄。
それも、とてもとても平凡なものが好きで。

焼酎は、いいちこ。
ビールは、キリンビール(のちにアサヒに変わる)。
煙草はマイルドセブン。
コーヒーも普通のブレンド。
柿ピーは、亀田のノーマルなやつ。

ささやかな人生を、ささやかに、楽しんで生きていた。
誰にでも好かれる・・・というよりも。
なぜか、オバちゃんに異様に親しまれる人だった。

とにかく、優しい人だった。

でも。短気だったんだ。
皆が「穏やかで優しい」と言い、それはまちがいないのだけれど。
すごくすごく、短気な人だったんだ。

私はそれを知っている。自分もそうだったから。
家族も、もちろん気づいてる。
よその人は想像したこともないと思うけれど。

なんだっけ。私、何を言いたかったんだっけ。
父の自慢? 父の思い出? 父を喪った悲しみ?

父がいなくなって生じる「忙しさ」を言おうとしていたんだ。
そして。それは。その忙しさの意味するものは。

父が今まで私に与えてくれていた時間を表すものなんだ、って。
父が。なんでもしていてくれたから。
私には、自由な時間があったんだ、たっぷり。

なのに。時間がない、時間が足りないって。
そんな、愚かな言葉を平気で発していた。

悔やんでも。悔やんでも。泣いても泣いても。
私が、父から贈られた時間のお礼をすることはできない。

お父さん、ありがとう。お父さん、ごめんなさい。

こんな長い記事を書いておいて。信憑性は薄いかもしれませんが。
まだまだ、私はブログを再開できる状態ではありません。
気持ちの面でも。時間の面でも。体力的にも。

というよりも。
ブログを辞めることも。また考え始めています。
今までも。何度も何度も。辞めかけては続けてきましたが。
今度が多分、一番本気で辞める気持ちに傾いています。

それでも。
書き溜めた感想がそこそこな分量あるので。
それは順次、投稿していこうと考えています。

それに。
今年はどのみち、そう多く本を読むことはなさそうですから。
もしかしたら、ポツリポツリと感想を書き始めるかもしれません。

辞めるとしても。
緩やかに。終わりに向かって歩いていく感じになるのでしょう。

私の性格上。結局は辞めない可能性はかなり高い気もします。
今は。どちらとも答えは出せません。出しません。

もっともっと大きな問題が控えているから。
それが。どう決着するかによるのだと思います。

では。またしばらく留守にします。
様子を見に来てくださっている方(いらっしゃるのかな?)、
ごめんなさい。そして、ありがとうございます。

父がいない生活を。生活として成り立たせるために。
私は今、精一杯、頑張っています。
頑張らなくていい、頑張りすぎ、と心配してくれる人もいるけれど。
やっぱり、私は頑張りたいのです。

母も頑張っている。頑張っていないと言いながら頑張っている。
力を抜かなきゃいけないけれど。
力を抜くことにも頑張ってしまっている。

それも。まだ仕方ない。
時間はかかります。当たり前だ。
だって。お父さんがいなくなっちゃったんだもの。
ずっとずっと、私たちを支え続けてくれた人が消えたんだもの。
父の不在を埋めることなんて絶対にできっこないんだもの。

そのことを自覚した上で、頑張るけど無理はせずに。
私がいちばん私らしく生きていける暮らしを。
これから造っていきたいと思っています。

父の死

病気一つしたことのない父が。
昨日、あっという間にこの世を去ってしまいました。

私が出勤して。
その後、母が買い物へ出かけて。
母は買い物から40分後に帰宅して。

その時にはトイレで倒れていました。
すでに心肺停止でした。

朝。いつも通りに朝食を一緒にとり。
自分の仕事と父が決めている掃除もして。
私の分もコーヒーを淹れてくれ。

何もかも。
いつもと同じ朝だったのに。

父がいない暮らしが想像できません。
母と二人きり。
どちらも弱い人間なのに。
そんな二人を支え続けてくれた父が消えてしまった。

どれほど。我慢づよく。
どれほど。優しく。
どれほど。愛情深い人だったろう。

何もしてあげられなかった。

75歳は、若すぎるとは言わないかもしれないけれど。
でも。やっぱり早すぎる。

いつかは、ということは全く考えないわけではなかった。
でも。まだ、先のことだと思っていた。

親をなくすことは。
誰にでもあることと覚悟はしていた。
でも。今ではなかった。

トイレで倒れたと言っても。
服もきちんと着て、床一つ汚すこともなく、
きれいにパタリと倒れていたという。

とにかく、病気と縁がなく。
どこかが痛いとかしんどいとか口にしたこともない人で。
誰よりも健康に見えていた人だったから。

皆がただただ、びっくりして。信じられなくて。

そんな中、親族の一人が思わずつぶやいた。
「あまりにも爽やかに逝ってしまった」と。

仕事中の私は、メールも電話もロッカーの中。
後になって開いた母からのショートメールには。

「お父さんが亡くなってしまいました」
「お父さんが亡くなってしまいました」

と。二回、短かい言葉が繰り返されていました。

長かった父の逝った一日、それよりも長かった翌日、
そして、父を送る明日。

私の心は半分くらいは平静で、
けれど一睡も出来ないほどには動転から冷めず、
気がつくと、こうつぶやき続けている。

「お父さんがいない、お父さんがいない、お父さんがいない」

もう会えないなんて。
そんなおかしなことってあるだろうか。

ごめんなさい。
ブログ、当分、お休みします。

落ち着いたら帰って参りますね。

暮しの手帖 4世紀82号

B01D5311MY
暮しの手帖社
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あれ? 松浦さんじゃないんだ?

編集長がいつの間にか変わっていました。
そうなんだ。いいとか悪いとかっていうより、吃驚。

でも。落ち着いて考えてみると。
松浦氏が長く編集長をやるわけはないようにも思える。

約10年、勤められたようですね。
気になって調べてみると。

彼は暮しの手帖社入社時、「売り上げを倍にする」と、
社主であり創業者の大橋鎮子さんにと約束したのだそう。

実際、退社直前にはその約束は果たせたようで。
10万部だったのが21万5千部になっていたそう。

えっと。で。この号ですね。
違いを感じるのかってことですね。
あのー。すみません。真剣に読んでませんでした。

そんなにピンと来るものはなかったようでもありますが。
うわー以前と違っちゃった!と嘆くほどでもなく。

中の人が変わってないから大丈夫なのかな。
毎号読んでいないせいもあってか、よくわかりません。

とにかく贅沢は言いません。
クウネルの二の舞にならなければOKです。

次はちゃんと読みますね。
心が折れていて、なんか内容が頭に入らなかったんです。

(2018.7.20)
昔のクウネルが大好きで。
バックナンバーをコツコツと集めています。
30冊くらいあるかな。
あれは本当に本当に大好きな雑誌でした。
ある日突然、俗悪雑誌に劇的に変貌。
ファンにとっては廃刊になる以上の悲劇。
暮しの手帖は、そうはなりませんように。
大丈夫と思いますが・・・


『宇宙のパワーと自由にアクセスする方法』ディーパック・チョプラ

4894516365
フォレスト出版
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願いを叶える方法

ざっくり言えば。
引き寄せの法則の系統ですよね。
著者が医師ということもあって。
毛色は微妙に違うんですけれど。

共感できるところと。
ん?ってところがありますね。

以下、引用。

真の幸せとは「無条件の幸せ」
条件づけをしない、理由や根拠のない幸せ。
自分の外側に喜びや幸せを求めないこと。

真の幸せを求めると、私たちは自分の内側にある喜びの源・・・創造の源である「純粋意識」につながろうとします。あらゆるものすべての創造の源につながるので、私たちが望むどんなものでも簡単に達成できてしまうというわけです。

ポジティブな心より「静かな心」

結果を求めなければ願望は叶う

 自然は最高に効率良く機能しており、この自然原理は、より少ない行動でより多くを達成します。これが最小限の努力の法則です。もし私たちが自然の原理を自分たちにも反映させることができれば、私たちも最小限の努力でより多くを達成できるのです。
 私たちにできることは、すべての創造力の源である沈黙の場に行って、まず願望を持ち、そして手放し、やってくる結果を観察することです。
 そして物事が私たちの望みどおりに進んでいないように見えるとき、「自分が考えているよりもっと大きな絵(全体像や宇宙の計画)があることに気がついていないだけなんだ」ということを信頼して、物事がこうでなければならないという考えを手放すのです。
 全体的に見れば、より大きい絵のほうが私たちにとって良いことです。私たちは、自分の人生には目的があり、宇宙全体の目的に適合していることを理解しています。宇宙が自分のサポートに回ってくれていることを知ることによって、私たちは執着せずに、ただ受け入れられるようになるのです。


引き寄せの法則や、宇宙にお願い系の本に。
半ば胡散臭さを感じつつも惹かれるのは。
元来、私の中に似た感じ方があるからです。

昔、私はそれを神様だと思っていましたけれど。
その神様は既製の宗教に当てはまらなくて。

というのも。
どの宗教の神様も「型」が強過ぎて。
私の思う神様は「エネルギー」に近かったかな。

助けて下さいと祈ることはなかったのは確か。
自分のなかにある創造性を発揮できますようにというのが。
私の不変の願いでした。

具体的に何かを作るという意味ではなくて…
「行い」も「創造」であるという考えで。

(2018.7.18)
本書はどうも散漫な印象を受けました。
あ!と思うところもあるのですけれど。


『片づける勇気』佐原美和 岩井俊憲

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ベストセラーズ
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「自分の答え」を見つける

片付けのなかで「残すか、手放すか」の問いは必ず発生する。
それに答えられるのは「自分の気持ち」しかない。
他人の意見は参考にしかならない。

・「あと片づけ」は使ったものを定位置に戻すこと。
・「整理」は乱れた状態にある物を整えること。

この二つの違いを知ることが大事。
まず「あと片づけ」からはじめる。

「定位置」を定めることが重要。そのポイントは。
・その物を使うところになるべく近く
・必ず1ヶ所にする
・グループごとにまとめて定位置を作る
・あまり使わない物は一覧表にする

「あと片づけ」は習慣にする。
使った後すぐが理想だが、難しい場合もあると思うので。
一日一回、決めたタイミングで。
*習慣になっている行動に紐づけするのが良い。
 例えば歯磨きの後とか、入浴の前とか。
 ↓
習慣になるまで3週間ぐらい、楽しみながら。
(出来た日はカレンダーにシール貼るとか)

 
*******************************************************************************
上記に簡単にまとめたのは一部です。

本書は近ごろ流行ってるアドラー心理学流だそうで。
あ。ちょっと引用しますね。

 アドラー心理学では、『自己決定性』と言って、親の性格や生活習慣などが、子どもに大きな影響を与えることはあるけれど、その環境で育ったからということだけで、その子どもの人生や性格を決める決定的な要因にはならない。
 それを受け止めた後に、建設的な行動を取るか、非建設的な行動を取るかは、自分自身で決めることができるからだ。

つまり。建設的な行動を取るためのコツが書いてある。
ワークとして。ひとつずつ、こなす形式になっています。

ひとつひとつの問いに真剣に答えていくと。
今まで、できてなかったことが出来てくる。

私、不便に気付いてなかったと知りました。
物の出し入れが面倒だから片づかなかったのね。
幾つかの物を場所移動しただけで、生活が快適に。

場所を固定する効果としては。
そこからはみ出すほどは自然と持たなくなるし。
逆を言えば。定位置から溢れない程度は物が増やせる。

当然、少ない方が楽ですけれどね。
私みたいな「物が好き」な人間は。
無理して減らすストレスの方が大きかった。

あと、これも自覚していなかったけれど。
同じジャンルの物を二ヶ所、下手したら三ヶ所に収納してた。

お気に入りとそこそこと、あんまり気に入らない物と。
どうも自分の中の「好き」の濃度で分ける傾向にあって。
同じ用途の物でも、わざわざ別にしてたみたい。

同じジャンルの物を一つにまとめて行くと。
色々と見えてきて、頭も整理できました。

まとめた時に見て美しい状態であって欲しいから。
周囲から浮き上がってるものがあると気になって。
あ。これは「仲間じゃないぞ」って認識できて。
お別れを告げられた物がいくつかありました。

さて。
私の片付けタイムは。朝、日記を書いた後。
10年日記が二冊目に今年、突入したのですけれど。
これは必ず、翌日の朝、朝食の前に書く習慣。

ま、これが定着するまでも紆余曲折ありましたが。
今は99%守れている鉄壁の習慣なので。
この後に片付けを紐づけしました。

で。終えたら、カレンダーの今日の日付けにシール。
シールね。やたらあるんです。
可愛いから捨てられないのだけど。
そんなに使い道もなくて。ちょうど良かった!

カレンダーが可愛いシールで埋まるとニヤけます。

日記も片付けも当日の夜の方が普通だと思うけれど。
私は朝の方が元気なので、パパッとできます。
夜は疲れてて、日記書いても暗くなるし。
掃除しても不機嫌になるし。

今まで、お片づけ本は散々読んで参りましたが。
これがもしかしたら、「決定打」かも。

結局。人に教えてもらったり決めてもらったり。
誰かが言ってたりやってたりをマネしたり……では。
心が納得していなくて。リバウンドするのだな。

自分に問うて、自分が答えるしかない。
それが簡単にはできないわけなので。
どう問えばいいかを手助けしてくれる本書は有り難い。

(2018.7.17)
すべてのことに対して。
「自分の答え」を見つけたいんだなぁ、私。
別にオリジナルだったり、新発見じゃなくてもいいの。
試行錯誤してアレンジするというのでも十分。
ただ、誰かの答えではない、と言えるような。
自分自身の現状に合うものにしたい。
うん。結局は誰かが出した答えだとしても。
自分の心の中で再発見できたように感じられるのが大事。
そのためには、よくよくよくよく考える必要があるのだ。
(実は面倒くさくて考えるのを怠りがち)

  

プロフィール

Author:彩月氷香

とにかく本が好き
読書感想がメインですが
時々、写真や雑記も。

*初めましてのご挨拶
*ブログタイトルの由来

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